自動車ライターの佐藤篤司氏が、フィアット500Xと共に北海道を旅するリポートの後編。体を休める場所に選んだのは、建築の聖地と言われる場所だった。そこは一体どんな空間なのか。知的で刺激的な宿泊体験をご覧いただこう。

建築の聖地で過ごす刺激的な時間

丸みを帯びた普遍のデザインは、どこに行っても様になる。名車は旅の思い出を、いっそう豊かにしてくれるのだ。
丸みを帯びた普遍のデザインは、どこに行っても様になる。名車は旅の思い出を、いっそう豊かにしてくれるのだ。

ホテル「MENU EARTH HOTEL」の入り口には大仰な看板もなければ、これ見よがしの煌びやかなエントランスもない。道路から見れば、うっかりすると見逃してしまうような佇まいだ。

芽武(MENU)と呼ばれるこの地はアイヌ語で「泉の湧き出るところ」と言う意味を持つという。その豊かな大地に広がる牧場の敷地は約5万6000坪と言う広大なもの。以前は中央競馬界に数々の名馬を送り出したサラブレッドの生産牧場「大樹ファーム」のトレーニングセンターがあった場所だ。

その風景は、これまでにも目にしたことのある競走馬牧場の眺めである。だがチェックインを済ませ、指示された客棟に自分で乗ってきた500Xで向かうと、単なるデザイナーズホテルと趣が違うことに気が付く。

広い牧草地は木製の柵によっていくつかに区分けされ、その一区画の中にぽつんとコテージが一棟だけ建っているという、実に贅沢な敷地の使いかたである。いくら土地にゆとりがある北海道であっても、もっと効率的な立て方が出来るのではないか、などとコンセプトを理解する前は思っていた。

北海道古来の住宅をモチーフに、壁と屋根を同じ膜材で仕上げた台地に浮かび上がるように建つ、これまでにない実験住宅。技術支援は東京大学生産技術研究所野城研究室。
北海道古来の住宅をモチーフに、壁と屋根を同じ膜材で仕上げた台地に浮かび上がるように建つ、これまでにない実験住宅。技術支援は東京大学生産技術研究所野城研究室。

しかしそれは棟ごとにあるコンセプトと北海道の大地を感じ、堪能するためには必要な、まさにパーソナルエリアなのである。

それぞれの棟は学生たちが隈研吾氏の監修のもと「寒冷地における持続可能な暮らし」を追求し、英知を結集させた実験住宅であり、それを有効活用するかたちで、2018年に宿泊施設としてオープンしたのがメムアースホテル。あくまでもここは商業施設として始まったのではなく、先進的な建築作品に身を置きながら、自然と触れ合うと言う唯一無二の空間だと、思いを改めた瞬間だった。

“RETREAT IN NATURE(日常生活から離れるための隠れ家)”をテーマに、居住空間と牧草風景が生み出す対話を象徴した住まい。設計はハーバード大学デザイン大学院。
“RETREAT IN NATURE(日常生活から離れるための隠れ家)”をテーマに、居住空間と牧草風景が生み出す対話を象徴した住まい。設計はハーバード大学デザイン大学院。
高さの異なる床、傾きの異なる屋根を持ち、それらによって環境が調整されることで、寒さと季節の移ろいを感じることができる家。設計はオスロ建築デザイン大学。この他にもコンセプトの違う客棟が敷地内に点在している。
高さの異なる床、傾きの異なる屋根を持ち、それらによって環境が調整されることで、寒さと季節の移ろいを感じることができる家。設計はオスロ建築デザイン大学。この他にもコンセプトの違う客棟が敷地内に点在している。

ちなみにそれぞれの客室棟は隈研吾氏監修による「国際大学建築コンペ」を勝ち抜いた早稲田大学、慶応義塾大学、九州大学、ハーバード大学、そしてオスロ大学など8校の最優秀作品群だ。この実験住宅プロジェクトのプロトタイプとして提案された住宅群に加え、ホテルのレセプションとレストランの役割を担う「スタジオメム」には、建築家の伊東豊雄氏が築40年以上経過した牧草保管用倉庫をリノベーションした貴重な建物もある。

その結果、このホテルはデザイン界のアカデミー賞と呼ばれる「ELLE DECO International Design Awards」を授賞している。この賞は通称EDIDAと呼ばれ、毎年ミラノ・デザイン・ウィーク期間中に13の部門ごとに各グランプリが発表される。そのうちの社会貢献度の高いプロジェクトに対する賞をこのホテルが受賞したこともあり、世界的にも稀有な「建築の聖地」と呼ばれるようになっている。そんなホテルでの経験は、これまでにないものだった。

本当の非日常がそこにあった!

筆者が選んだのは、「馬と暮らす」がテーマの宿泊棟。
筆者が選んだのは、「馬と暮らす」がテーマの宿泊棟。

500Xで乗り付けた我々の宿泊棟には、すでに先住者がいた。クルマのラゲッジから荷物取り出し、部屋に運び込もうと大きな木の扉を開けると、馬のいななきが聞こえたのだ。そこはロビンと呼ばれるポニーが過ごす厩舎であり、客はそこを間借りするような形になるのだ。

この棟は慶應義塾大学の設計で、コンセプトは同じ敷地内に放牧された馬とともに暮らすというもの。馬とふれあい、ともに過ごす時間を通じて、地域資源に溶け込む豊かな暮らしを体感できる。人と牛や馬と言った家畜が同じ屋根の下で過ごすことは、数十年前まで日本の農村地帯でもまだ見られた光景だろうが、さすがに現在は相当にレアケースだ。

部屋に入ると干し草の臭いと、かすかなアンモニア臭がした。しかし、居住スペースに入るとまったくそうした臭いはしない。部屋の壁面にズラリと並ぶ炭が脱臭、そして発酵促進剤としての役割を持っているからだという。

木の扉を開けると干し草が積まれ、“住人のロビン”が出迎えてくれる。
木の扉を開けると干し草が積まれ、“住人のロビン”が出迎えてくれる。 

馬のいる空間に炭を置く事でアンモニアを吸着し、アンモニアを吸着しなくなった炭は熱源として使われた後、さらに肥料として使われるという循環だ。人間と動物、そして建築との新しい関係性を示唆するユニークな試みにあふれた実験住宅でしばらく過ごすと、ガラス越しに動き回るロビンの姿もまったく気にならなくなる。

というか、人にも馬にも両者にとってストレスのない、お互いの信頼関係の良好に成り立たなければ、豊かな時間を過ごすことは出来ないことになる。

この猫や犬というペット以上の存在感を持つ家畜とひとつ屋根の下で、馬と人とが家族のような時間を過ごしながら、牧草地に放牧された馬と好きな時に触れ合うことができる経験は相当に刺激的だった。

居住エリアの壁には消臭のための炭が並ぶ。
居住エリアの壁には消臭のための炭が並ぶ。
階段を上がると就寝スペースやバストイレが完備されている。
階段を上がると就寝スペースやバストイレが完備されている。

またナチュラルホースマンシップを学んだ専属のバトラー(厩務員)がサービスを担当し、乗馬の体験や馬とのコミュニケーションも味わえる。北海道の大自然に抱かれながら、これまでに経験のない馬との生活を送る。それは贅を尽くした高級リゾートホテルでは決して味わうことの出来ない体験である。もちろん他の客棟のコンセプトはすべて違い、選ぶことが出来る。

大地の恵みを余さずいただく

レセプション棟の「スタジオ メム」は建築家の伊東豊雄氏が築40年以上経過した牧草保管用倉庫をリノベーションしたと言う貴重な建物。ここはレセプションだけではなく、キッチン、スーベニアなどが並ぶインスピレーションコーナーとなっている。
レセプション棟の「スタジオ メム」は建築家の伊東豊雄氏が築40年以上経過した牧草保管用倉庫をリノベーションした貴重な建物。ここはレセプションだけではなく、キッチン、スーベニアなどが並ぶインスピレーションコーナーとなっている。

夜、客棟を出て満天の星の下、徒歩でディナースペースのあるレセプション棟に向かった。ここはレセプションだけではなく、キッチン、スーベニアなどが並ぶインスピレーションコーナーとなっている。天体観測用の望遠鏡を覗いたり、ピザづくりをしたり、焚き火といったアクティビティなども楽しめるスペースだが、これから旅の大きな楽しみ、ディナータイムである。

地元の食材にこだわり抜いた絶品のディナー

大樹町産 九重栗のニョッキ。
大樹町産 九重栗のニョッキ。

MEMU EARTH HOTELは食に関しても抜かりがなかった。シェフはJAL国内線ファーストクラスの機内食を監修したこともある(2019年8月)、帯広出身の沼田元貴氏。地元を知る沼田シェフが北海道の豊かな自然環境を見つめ直し、風土に根付いた食材や調理法を開拓して提供する料理の数々は、新しさの中にも親しみを感じられるメニューとなっている。

坂根牧場のモッツァレラと季節の地野菜のカプレーゼ。
坂根牧場のモッツァレラと季節の地野菜のカプレーゼ。

例えば野菜について言えば、種や育て方にも着目し、野菜本来の甘味や辛味、苦味の感じられる食材を選んでいるという。ジビエについても適切な狩猟法や絞め方を熟知した近隣のハンターから直接仕入れ、臭みやクセの出ないシンプルな調理を心がけるなど徹底したこだわりを見せる。

まさに農業大国・十勝だからこそ可能になった「地球がくれた大地の恵みに感謝しながら、心を込めて一品一品を仕上げた料理」といえる。

大樹町産 秋味のボワレ。
大樹町産 秋味のボワレ。
坂根牧場のグラスフィットビーフ(35か月)すね肉の赤ワイン煮込み。
坂根牧場のグラスフィットビーフ(生後35か月)すね肉の赤ワイン煮込み。
十勝きな粉のパンナコッタ。
十勝きな粉のパンナコッタ。
蕎麦の実のガトーショコラ。
蕎麦の実のガトーショコラ。

アペタイザーからメインディッシュ、そしてデザートと次々と饗される料理が、どれも記憶に残るほどの力強さを持っているのは、そうした食に対する明確な思いがあるからだろう。季節ごとの十勝の旬の味わいを十分に堪能できた。

食後はたき火を囲んでゆっくりと他の宿泊客たちと語らいながら時間を過ごした。なんとも言えない心地いい時間を過ごしたところで、また星を眺めながらロビンの待つ客棟に戻った。

贅沢なシーンはこういうことをいう

牧草地と草を食む馬。そこにイタリアンデザインのフィアットがピタリとはまる。
牧草地と草を食む馬。そこにイタリアンデザインのフィアットがピタリとはまる。

部屋に入ると寛いでいたロビンが少しだけ迷惑そうにこちらを見る。ごめんよ、と一声掛けて客室に入る。暖房の効いた部屋は快適で、一日のドライブの疲労もあって、ロビンの気配を感じながらも、すぐに眠りに落ちた。途中でロビンは騒ぐでもなく、朝まで熟睡することが出来たし、目覚めは実に爽やかである。

昨晩、ディナーを楽しんだレセプションハウスで心づくしの朝食を楽しみながらスタッフと話をした。ここでは契約農家から食材を仕入れ、出たゴミをコンポスト化して、調達元の土地に還すなど、持続可能性も追求している事を改めて確認した。そうした地元、自然を愛する気持ちが、ディナーと同じように美味しい料理にも反映されているようだ。

チェックアウトのために部屋に戻るとロビンは専属のバトラーによって牧草地へと連れ出されていた。のんびりと草を食みながら牧草地を散歩するロビン。その横にはイタリアンデザインの500Xが優しく佇んでいる。日本の日常ではほとんど目にすることのないシーンがそこにあった。本物の贅沢とはこういうことを言うのかも知れない。

北海道の爽やかな風、青い空、そしてフィアット500X。いつまでもドライブを続けたくなった。
北海道の爽やかな風、青い空、そしてフィアット500X。いつまでもドライブを続けたくなった。

そしてクルマに荷物を積み込み、一夜を共にしたロビンに別れを告げてチェックアウトして走り出した。もちろんマウンテンバイクを借り出して実験住宅を見学したり、近くの海岸までサイクリングと言うアクティビティも楽しむことは出来るが、帰りの便の都合もあり、この魅力に満ちたホテルを後にした。

そして空港に向かい、今回のドライブプランを思い返した。若い頃から訪れてみたかった場所、そして最近気になっていたホテルなどをフィアット500Xと共に訪ね、これまでにない経験をした、まさに一期一会のドライブ。

空港に着けばこの刺激に満ちた旅が終わると思うと、500Xとのドライブを愛おしく感じ、いつまでも続かないかと願っていた。間もなく北の大地は一面、雪に閉ざされることになる。“寒いときには北に行け”。そんな旅のテーゼを噛みしめながら、またこの地を500Xと共に走り、新しい経験をしたくなった。

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この記事の執筆者
男性週刊誌、ライフスタイル誌、夕刊紙など一般誌を中心に、2輪から4輪まで「いかに乗り物のある生活を楽しむか」をテーマに、多くの情報を発信・提案を行う自動車ライター。著書「クルマ界歴史の証人」(講談社刊)。日本自動車ジャーナリスト協会(AJAJ)会員。
PHOTO :
尾形和美