以前、紹介したジョージ・ガーシュウィンの『ポーギーとベス』に続いて、METライブビューイングに4月中旬に登場するのが今回紹介するヘンデルのオペラ『アグリッピーナ』だ。
幕が上がると舞台中央に出てくるのが、巨大なチーズを切り分けたかのような黄色い塊。背の部分が階段状の斜面になっていて、その頂上部分に肘掛けの付いたローマ皇帝の椅子が据えられている。そこに自分の連れ子ネロを座らせたい、というのが現皇帝の妻アグリッピーナの野望。その実現のために陰謀を巡らし……。
18世紀初頭にイタリアで作られたヘンデルのオペラ『アグリッピーナ』(Agrippina)は、そんな話。ローマ帝国を舞台にしているが、初演当時のローマ教皇を揶揄したとも言われているという、ブラックな政治喜劇。その精神は現代にも充分すぎるほど通じるもので、欲望のままに動く登場人物たちの姿は、今のアメリカなら誰、日本なら誰、と具体的にダブって見えてきたりもするほど。展開も快調で、観ていて飽きることがない。
新演出でよみがえる18世紀初頭の大人気オペラ
ヘンデル(作曲)のオペラ、と言われても、オペラ通でない者にとってはピンと来ないが、初演当時は大人気の作品だったらしい。実際、音楽的にも聴きどころが多く、凝らされた技巧も楽しい。にもかかわらず、ヘンデル没後、歴史の彼方に置き去りにされてしまっていた、というからクラシック世界の人気も移ろいやすいのか。それが20世紀になって再発見され、新演出による様々な上演が注目を浴びてきている、というのが『アグリッピーナ』の今。歌舞伎で言えば、毎年1月に菊五郎劇団が国立劇場で上演する復活狂言のような存在だ。
今回のヴァージョンも、MET初演にして新演出。演出家はMETでも実績のあるスコットランドのデイヴィッド・マクヴィカーで、振付のアンドリュー・ジョージ、装置のジョン・マクファーレン、照明のポール・コンスタブルら、イギリス勢のスタッフを結集して舞台上に作り出したのは、古代ローマの遺跡の中で1950年代的なファッションの人々がうごめく蠱惑的な世界。色彩的にも、内容に呼応するような腐敗一歩手前の美しさがある。
ケント・リンジーのジェンダーを超えた怪演に注目
主演のアグリッピーナ役ジョイス・ディドナートは、ヘンデルを得意とする超一流のメゾソプラノ。欲深い陰謀家をシニカルに演じて舞台を引っ張る。
ディトナートと並んで際立つのがケント・リンジー。やはりメゾソプラノの女性だが、演じるのはアグリッピーナの息子ネロ(ネローネ)。ジェンダーを超えた神経症的な人物像は怪演と呼ぶにふさわしく、強い印象を残す。
他に、アグリッピーナの陰謀の核になるフェロモン系ポッペア役のブレンダ・レイ(ソプラノ)、その罠にハマる軍人オットーネ役のイェスティン・デイヴィーズ(カウンターテナー)、皇帝クラウディオ役マシュー・ローズ(バス)、といった面々がそれぞれの見せ場で個性を発揮。物語の中を右往左往しながら楽しませてくれる。
知名度は高くないが、一度観たら忘れられなくなるブラックなオペラ『アグリッピーナ』を字幕付きで楽しめるという、めったにない機会。お観逃しなく。
METライブビューイング『アグリッピーナ』
上映期間/2020年4月10日(金)~4月16日(木)
再上映日程/7月3日(金)~
- TEXT :
- 水口正裕 ミュージカル研究家
公式サイト:ミュージカル・ブログ「Misoppa's Band Wagon」