1974年、いまから約40年前の10月30日。当時ザイールと呼ばれていた中央アフリカ、コンゴ民主共和国の首都キンシャサのスタジアムでそんな孤独な戦いのただ中にいたのが、20世紀最強のボクサーと呼ばれた、当時の世界ヘビー級第1位のモハメド・アリである。
Muhammad Ali モハメド・アリ
赤コーナーでアリを待ち受けるのは、25歳の世界王者、怪物ジョージ・フォアマン。40戦無敗37KOのそのパンチは「象をも倒す」と恐れられ、実際、アリを破ったことがあるヘビー級のトップ・コンテンダー、ジョー・フレージャー、ケン・ノートンのふたりですらフォアマンの強打の前に3ラウンドめのゴングを聞かずして潰えている。
アリ絶対不利。ニューヨークの賭け市場の直前賭け率は、フォアマン3対アリ1、もっと冷静なロンドン市場は11対1。作家ノーマン・メーラーによれば、いままで見たことのないような〈怯え〉が試合開始を待つアリの目に浮かんでいたという……。
1960年のローマ・オリンピックでライトヘビー級の金メダリストとして注目を浴びたアリは、プロに転向。4年後に殺人パンチで知られるヘビー級チャンピオン、ソニー・リストンを6ラウンドで葬ほうむり、世界王座につく。
自ら「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と喩えたアウトボクシングは、ヘビー級の殴り合いボクシングに革命を起こし、その整った容姿も幸いし、黒人アスリートのプリンスと謳われる。しかし’60年代から’70年代、米国におけるアリの存在感の源は、拳よりもむしろ口にあった。
このムスリム教徒のビッグマウスは対戦相手をコケにするだけではない。米国の人種差別を痛烈に批判し、ついには「おれはベトコンと戦う理由はない。
彼らはおれをニガーと呼んだことはない」と徴兵を拒否。泥沼化するベトナム戦争を戦っていた米国政府までも敵にまわす。その結果は、1967年のタイトルおよびボクシングライセンスの奪だ。
リングでの戦いを封じられたアリは、なんと3年余という長いラウンドを司法省を相手に戦い、ついに名誉回復をなしとげるが、失ったベルトへ再び手をかけるためには、さらに17戦と4年の雌伏が必要だったのである。
キンシャサ時間午前3時、ファイターとして、自由の戦士として、アリの名誉回復がかかった15ラウンドがついに開始された。
おおかたの予想通り、アリは足をつかってフォアマンを挑発する。すばやい左ジャブ、シャープな右ストレート。上々の第1ラウンドだった。しかし、第2ラウンドが始まって30秒もすると、アリはロープに撤退する。ロープを背にしたら勝ち目はない、と言われていたロープに自らすすんで!
もうおまえを逃がさない、そんなフォアマンの怨嗟の声が聞こえるようなヘビーパンチがアリの脇腹に食い込む。たとえ話でしか使ったことのない〈サンドバッグ状態〉がテレビ中継を見る75か国10億人の目の前で繰り広げられている。
重苦しい膠着状態はその後もふたりの黒いヘラクレスの間で続く。だが、どのラウンドでも終盤になるとアリはフォアマンに向かって「おまえのパンチはそれだけなのか、ジョージ?」と叫んでいる。それだけではない。ラウンドの合間、アリは観客に向かって「アリ・ボマイエ!(アリ、やっつけろ!)」のチャントを要求しているではないか。
アリはいったい、何をしようとしているんだ?
ひとびとがアリのトリックプレーもこれで見納めと半ば確信しかけたとき、事件は起きた。
ラウンド8、2分過ぎ。倒れてくれといわんばかりに乱れ打つフォアマンの左右をアリは頭ごと押さえこむ。フォアマンがだるそうに振り払った刹那、潜んでいたアリの右がフォアマンの顔面を急襲する。続いて右と左の5連打。フォアマンは弧を描いて倒れた。
勝てるとしたら後半めぐってくるであろう一瞬のチャンスしかない。あえてロープを背負いフォアマンに打たせ、体力を消耗させたのも、観客のチャントや呪いのような声掛けで精神状態を不安定にさせたのも、すべてその一瞬のチャンスを穿つためだった。
敗れたフォアマンは、後にこう述懐している。「倒れる俺に対してアリはとどめの一発をささなかった。それがアリが史上最も偉大なボクサーだという証明なのだ」
1974年10月30日ザイール時間早暁、モハメド・アリは、神に最も近づいた男だった。
- TEXT :
- 林 信朗 服飾評論家
- BY :
- MEN'S Precious2013年秋号 孤高のダンディズム烈伝より
- クレジット :
- イラスト/木村タカヒロ