東京で過ごしていた身には、今年の夏はずいぶん「らしくない」夏だった。
長雨は感覚までも狂わせるようで、聴きたい音楽も思いつかないほどだった。
ここ数年残暑が厳しかったこともあって、9月に入ってからも身構えていたのだが、結局暑い日が数日あった以外は、早々に秋風が感じられるようになってしまった。
なんだか「夏ロス」だなとぼんやり空を仰ぎながら、惜しむように今になって夏らしい作品に親しんでいる。
窓外からはいまだに時折、蝉の声が聞こえたりもする、幻聴だろうか。
去年〜今年になって、また「シティ・ポップ」という言葉を多く耳にするようになった。
ユーミンや大瀧詠一、山下達郎といったミュージシャン、そしてそのフォロワーたちが生み出した’70年代後半〜’80年代中盤の一連の音楽を、当時そんな風に呼んでいた(と記憶している)。
’80年代後半には一旦下火になったものの2000年代中盤以降に再評価され(ファッションや文化の80年代リバイバルの一端ともいえる)、10年代には流線形や土岐麻子らよってシティ・ポップはひとつのシーンとなった。
さらにシーンの一翼を担うと見なされている(案外そうでもないと個人的には思うが)Suchmosのヒットなどもあり、にわかに活性化している。
Youtubeを掘ると、その人気は日本に限らず海外にまで拡がっていることがわかる。
一十三十一はそうしたシティ・ポップ(リバイバル)のミュージシャンとしては、古株のほうだろう。
もともとはスムース&ソウルフルな歌声で知られるシンガーだったが、富田ラボのアルバムへの参加あたりからポップ色を強め、2012年に流線形のクニモンド瀧口らが参加したアルバム『City Dive』で確信犯的にシティ・ポップの歌姫となった(「グラスに浮かべたノンシャラン」という曲のタイトルには思わずのけぞったものだった)。
その後『Surfbank Social Club』『Snowbank Social Club』の2作のアルバムをリリースし(まさに「サーフ&スノー」だ)、2015年にリリースした『THE MEMORY HOTEL』はそのタイトルとジャケットのアートワークで、かの昭和のシティ・ポップの女王を容易に連想させた。
そんな彼女が本格的な夏の到来を前にリリースしたのが、シティ・ポップシーンの仕掛け人として知られるDORIANプロデュースのアルバム『Ecstasy』。
※7月19日リリースのニューアルバム『Ecstasy』より
彼女にしてはギミックのないタイトルだなと思ったが(セクシーなイメージはもともと彼女のマナーでもある)、アルバムの音を聴いてなんとなく腑に落ちるところもあった。
DORIANの緻密な打ち込みに、いつもよりさらに硬質な感触の彼女の歌声が縦横無尽に響く。
密室感、それゆえの純化されたポップネス。
この現代においてシティ・ポップがウケている、そのエッセンスを抽出したようなサウンド、それがつまりエクスタシーということか。
さらに聴いていて思い至ったのは、シティ・ポップと、Washed Outのような’80年代ニュー・ウェーヴ音楽の発展系ともいえるチル・ウェイブとの連関というか、シンクロニシティだった。
ついそんな風に俯瞰してしまうのは、自分がシティ・ポップもニュー・ウェーヴもほぼ同時代の音楽として1970〜’80年代に消費してきたからかもしれない。
かつてのレア・グルーヴがそうだったように、シティ・ポップとして今日掘り起こされている音源の中には、間宮貴子や秋元薫といった、今では「誰?」と思ってしまう女性シンガーのものも数多い。
それらはまさに時代の徒花かもしれないが、だからこそ純度の高いポップスともいえる。そのポップネスはいわば結果論である。
ところが一十三十一の新作を聴いていると、そんなポップスのありようをはじめから追求しようとしているように思えてならない。
しかもそれは時代を反映したサウンドということではなしに、シティ・ポップというイマジネーションに依拠しているのだ。
そんなどこか雲を掴むような姿勢が、例えば土岐麻子のような「素敵さ」は一味違った感触を生み出しているようにも思える。
現実を直視しない人を「お花畑」と揶揄する向きがあるが、一十三十一の音楽はある意味で「お花畑」的かもしれない。
しかし政治的意見や主義と違って、「お花畑=ユートピア」志向だからこそ、音楽としての強靭さが生まれるように感じる。
ここまで書いてきて、気づいたことがある。この『Ecstacy』、あまりにイマジナリーな音楽世界であるからこそ、夏らしさを感じなかった今年の東京に似合っているのかもしれない。
雨に閉ざされたマンションの一室でデスクの前に座り、脳内を夏に、パラダイス感に満たすこと。
その逆説感は確かに一種の快感だ。まあ倒錯とも言えるが。
- TEXT :
- 菅原幸裕 編集者