格差婚に悩むのは、もう古い?

結婚すべきかどうか、ひどく悩んでいた友人がいる。何も障害はなさそうだし、相手にも不満はなさそう。一体何を悩んでいるのか、いくら聞いても要を得ず、助言のしようもなくて困ったほど。正直、40も過ぎていて、結婚そのものに躊躇するような年齢ではなかったから、余計に不思議だった。

でも根掘り葉掘り聞いているうちに判明したのだ。この結婚、彼女の方がはるかに収入がよく、社会的な立場も上であること、あるいは職に就いていないこと、そこに彼女は何年も悩んでいたのだ。彼が良い仕事に就くまではと………。

もちろん、わからないではない。それこそ“結婚適齢期”と言うものが明確にある上に、高学歴高収入の結婚相手を見つけることが、女性にとっての人生のテーマだったような時代に、その結婚適齢期を迎えてしまったような世代である。彼女も、私自身も。最低でも、自分より稼いでいる夫でないと、何だか格好がつかないと思う世代であることは間違いなかった。

しかし、時代は明らかに変わったのだ。こういうことは、基本的にドラマのほうが先行するとはいえ、妻は大手企業の管理職、夫はただいま失業中でかいがいしく主夫をする……みたいな設定の映画やドラマは、今や少しも珍しくない。しかもひと昔前はよくあったように、「男のほうがミュージシャンになる夢を叶えるまで、女が生活を支える」みたいに、中途半端な大義名分とロマンティシズムの混じらない格差設定が、今はいっそ清々しく感じられたりするほど。

気がつけば、私たちの頭の中でもそうしたことへの抵抗がなくなっていた。しかし、自分自身の事となるとどうなのだろう。自分の中に、やっぱり"夫の方が社会的にも少し上"の方が美しいのではないかという、古い美認識が息づいていたり、何より世間にそう見られたくないという女だけの見栄が未だにくすぶったりしているのを感じる人、きっと少なくないはずなのだ。

だから彼女も、格差婚をしようとしていること自体を人に悟られたくなかったのだ。その気持ちがわかっていながら、自分は友人に対し、なんでそんなこと気にしてるの? イマドキ古いよ、と平然と言ってのけていた。

だいたいが、そういう格差婚をした人の方が幸せになれてるはずと。ハリウッド女優なんて、みんなそうでしょと。

むしろ、辛い女ほど、重圧ある女ほど、格差婚すべきである!

いや、実際にそうなのだ。例えばアン・ハサウェイ。ほぼ無名のコメディ俳優、アダム・シュルマンとの結婚は、典型的な格差婚として散々揶揄され、いつまで持つのかとゴシップ誌には面白おかしく書きたてられた。しかし結果として今年もう結婚10年。不妊治療の末に子どもをもうけ、二人めも出産間近。逆に今は仲睦まじいところを、好意的に伝えられるようになっている。

アン・ハサウェイとアダム・シュルマン
アン・ハサウェイとアダム・シュルマン

ちなみにアン・ハサウェイは日本では文句なしに人気だが、アメリカではハサヘイト=ハサウェイとヘイト(嫌い)を掛け合わせた言葉が一人歩きしてしまうほど、ネット上で悪口を言われ、何かにつけてバッシングされてしまう存在だった。

一言で言えば「あざとい」。言動が芝居がかっていて、偽善的であるという理由で。だから格差婚も当初は様々な憶測を呼び、どう転んでも好意的には見られなかったわけだが、いつの間にかそうしたバッシングをも乗り越えて、幸せな家庭を確立したことに、逆に拍手も巻き起こっているのだ。

「私には彼が必要。彼の愛が自分を変えてくれた」と彼女自身語っているが、それは嘘偽りない真実なのだろう。

世間に不条理に嫌われながらも第一線に居続けるって、それ自体“奇跡的”なことだし、活躍が目立てば目立つほど嫌われる、その苦悩は大変なもの。普通の精神力では乗り切れはしないのだろう。

だから余計に空気の読めない女という言い方もされたはずだが、でもそこまでの「いたいけなトップ女優」を、この夫は一体どうやって支えてきたのだろう。相当な努力と忍耐がなければ、2人ともさすがに立ってはいられなかったはず。これは夫のほうも褒めてあげるべきなのだ。

格差婚と言われても言われても、いや逆に言えば格差婚だから、「世界中を敵に回しても、自分だけが彼女を支えられるのだ」という強い自負が生まれていたに違いないのだから。

とすれば、辛い女ほど、重圧がある女ほど、逆境にある女ほど、実は格差婚すべきだったりするのかもしれない。男女をひっくり返せばそれは、「貧しい下積み時代を支えた糟糠の妻」みたいなもので、夫婦の絆が最も深まるパターンにほかならないから。

とはいえ欧米には、日本ほど「格差婚」というものへの偏見はないはずだ。もともと女性の社会的地位が高いから。だって、日本は「男女平等ランキング2020」で、ついに史上最低の121位となってしまった国、主要先進国の中では、もうお話にならないくらいの最下位だ。

ヨーロッパの先進国に比べれば低めのアメリカでも53位、Me Too運動で明るみに出た男女差別が現実にあったとはいえ、それでも以前から女性たちが男女格差と戦ってきた国だから、格差婚も当たり前に存在したのだ。

従って、ケイト・ブランシェットなども日本人の私たちから見れば、やっぱり格差婚に違いないのに、向こうではそこはあまり突かれない。

ケイト・ブランシェットとアンドリュー・アプトン
ケイト・ブランシェットとアンドリュー・アプトン

夫のアンドリュー・アプトンは劇作家としてもそこそこ、映画の脚本となると妻の主演作ばかりであるあたりはやはりちょっと気になるし、映画界においてあまりにも偉大な存在であるケイト・ブランシェットと並べば、やはり大きな落差があると言わざるを得ない。しかし夫婦仲は円満で、結婚24年。三男一女を設けている。

ケイト・ブランシェット
ケイト・ブランシェット

金持ち男と美人の組み合わせでは生まれない、感謝と尊敬、慈愛が生まれる

そして何より大変失礼ながら、ケイトの夫がこの人⁈ と、誰もが驚くほど、正直言って風采が上がらない風貌。二人は、とてもじゃないがお似合いとは言えない。でもだからこそこの関係に、ある種の尊さが透けて見えてくるのである。

そこはアン・ハサウェイの場合も同様だけれど、自分自身が功成り名遂げていると、パートナーには収入も名声もそして外見も、多くを望まないということなのだろう。だからそこにある種のパワーバランスができて、夫はつまらないプライドを捨てて妻に尽くすこともできるのだろうし、そういう人にきちんと感謝できる妻の徳が、きっとまた名もなき夫を人として成長させていくに違いない。

つまり夫婦は、順風満帆ではない、いろいろ問題を抱えたうえでベターハーフになった場合こそ、見事にお互いを成長させ合う。格差婚にそういう作用が生まれやすいのは確かなのだ。金持ちの男を探す女と、美しいだけの女を探す男、そういう組み合わせではおよそ生まれない、感謝と尊敬、慈愛という名の愛情が生まれるのだから。

ただ言い換えれば、格差婚には男の方にも女の方にも、両者に人間の深みと言うものがなければ当然のことながらうまくいかない。勢いで、興味本位で、乱暴にくっついてしまう格差カップルは、もちろんその分破局が早い。最たるものが、ブリトニー・スピアーズの結婚1日目、約55時間後の離婚。地元の幼なじみとの衝動的な、いやもっとジョークに近い結婚だったというが、まさに姫のご乱心と言うべきだろうか。

前の結婚の失敗で、傷ついた羽を休めるのが格差婚?

一方、先ごろ3度目の結婚を発表したスカーレット・ヨハンソンも、三年で破局となった2度目の結婚が格差婚であったことは、「ジャーナリスト」を名乗りながらも、活動自体はあまりない夫のために、スカヨハがポップコーンのショップをオープンする、という出来事があったことに明らかだ。

格差婚のひとつのパターンとして、その前の結婚や交際が、非常に不幸な結末を迎えてしまったが故の、逃げ場のような結婚になる場合は決して少なくない。

スカヨハは、23歳の時にハリウッドのモテ男、ライアン・レイノルズと電撃的な結婚をするも、わずか2年後、彼は今の妻であるブレイク・ライブラリーと恋に落ちてしまっている。しかも、離婚後すぐに交際が始まるショーン・ペンとは、スカヨハが結婚を望んだものの叶わずに、言ってみれば失恋の形で破局、二重に傷ついたスカヨハが羽を休めることになったのが、この自称ジャーナリスト氏との格差婚であったのだ。

ちなみにアン・ハサウェイも、いまの格差婚の前に、イケメンのセレブ実業家と交際していたが、その彼が詐欺罪で逮捕されるという災難に見舞われる。しかもアン・ハサウェイの名前を利用していたともされ、その傷を癒してくれたのが、今の格差夫だったと言ってもいい。2人の大女優は明暗を分けたものの、どちらも格差婚という形で自らを救ったと言っていいのである。

ただスカーレット・ヨハンソンは3度目の結婚でコメディアンとして名高いコリン・ジョストを選び、しかもその結婚を、“食糧難に苦しむ孤独な年寄りを救済する団体”の公式アカウントで発表。二人の価値観がそこに結実したわけで、極めて知的な女性だけに、電撃婚の失敗、格差婚での挫折と、いくつもの傷を受けたからこそ、ある種の境地に達したこと。3回目は、今までの結婚とはまるで違うのだということをアピールしたかったのだろう。

スカーレット・ヨハンソンとコリン・ジョスト
スカーレット・ヨハンソンとコリン・ジョスト

いずれにせよ前の結婚で失敗すると、逆の方向に振り子が振れるのは人間の本能で、そこで出会った格差婚が、女に極めて多くのことを教えてくれるのは間違いないのである。

どちらの知性も輝く、格差婚って素晴らしい!

そう言えば、オペラ界のスーパースター、アンナ・ネトレプコも、“世紀の格差婚”を果たしているが、5年前に結婚した"無名と言ってもいいテノール歌手"ユシフ・エイヴァゾフを、自分のコンサートにしばしばバーター出演させていて、これにはオペラ界も賛否両論の嵐。ここまで露骨に悪びれず、自分の夫を重用するディーバもいないうえに、それさえも許されてしまうほど、絶大なる人気と実力が備わっている人であるのは間違いないのだ。

アンナ・ネトレプコとユシフ・エイヴァゾフ
アンナ・ネトレプコとユシフ・エイヴァゾフ

そもそもこれは事実上、2度目の結婚。1度目はオペラ界きってのイケメンであるバリトン歌手アーウィン・シュロットで、入籍こそしなかったものの一児を設けている。ところが後にその子に障害があることを自ら告白、結局そのイケメン歌手とは別れている。一説に彼には妻子がいたとの噂もあって、世界一の歌姫が様々な苦悩を背負ったうえでこの格差婚を果たしたことは確かなのだ。

だから全てひっくるめて自分を最上級に愛してくれる、ちょっと太めの夫と、同じ舞台で嬉しそうに歌う姿には、なんだか心を動かされるのだ。

アンナ・ネトレプコとユシフ・エイヴァゾフ
アンナ・ネトレプコとユシフ・エイヴァゾフ

どちらにせよ、酔った勢いのブリトニーの場合以外は、格差婚こそ力強く生きている女性たちのとても自然な生き方の選択にほかならない。もちろん経済力も生命力もある女にぶら下がって生きる男は論外だし、そういう男を選んでしまう女の浅はかさは別として、格差婚は女の進化の証、そう言えるのではないだろうか。

さらに言えば、夫より収入も地位も高いことに対して、後ろめたさを感じる事もまた、そういうキャリアある女性たちゆえの知性の現れだと考えることもできる。逆にその妻を尊敬し、だからサポートすることに誇りを持てるのは夫の知性。そういう男性は、必ず精神的に成熟していく。たとえ良い仕事に着けなくても。だから格差婚って、じつは素晴らしい結婚なのだ。

もう男も女もない。良い仕事に付けたほうが稼げばいい。社会に適合したものが 家計を支えればよい。そしてそれをサポートする覚悟を決めたほうが家を守ればいいのだ。だから格差婚にもう格差はない。後ろめたく思うことはないのだ。それどころか、そういう結婚ができることに誇りを持つべき。男に依存しないこと、それだけだって女として尊いことなのだから。

この記事の執筆者
女性誌編集者を経て独立。美容ジャーナリスト、エッセイスト。女性誌において多数の連載エッセイをもつほか、美容記事の企画、化粧品の開発・アドバイザー、NPO法人日本ホリスティックビューティ協会理事など幅広く活躍。『Yahoo!ニュース「個人」』でコラムを執筆中。近著『大人の女よ!も清潔感を纏いなさい』(集英社文庫)、『“一生美人”力 人生の質が高まる108の気づき』(朝日新聞出版)ほか、『されど“服”で人生は変わる』(講談社)など著書多数。好きなもの:マーラー、東方神起、ベルリンフィル、トレンチコート、60年代、『ココ マドモアゼル』の香り、ケイト・ブランシェット、白と黒、映画
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