戦場カメラマン。
それは世界中の男のロマンティシズムをかきたてる職業だった。すくなくとも1975年のベトナム戦争の終結までは……。
なぜならそれまでの戦争には反ファシズム、反独裁政権、民族独立というわかりやすい大義があったからだ。戦場もまた今のような電子戦とは異なり、兵隊どうしの地上戦という肉体的リアリティが残っていた。それを伝えるのが写真だ。写真こそが戦争というニュース中のニュースを世界に伝えるメディアの主役だったからである。その最前線にいたのが戦場カメラマンだった。
Heads or Tails?
そして20世紀の戦場カメラマンといえばロバート・キャパに決まっていた。当時報道写真を志すすべての若者が憧れたといっていいキャパという男は、まさにそのロマンティシズムを生きた男だった。
キャパの魅力。それは風のような自由さだ。
国や思想や宗教や既成のモラルなど、このボヘミアンには通用しない。ハンガリーの貧しいユダヤ人の家に生まれたキャパにはもともと頼るべきものも失うべきものもなかった。パスポートすらまともなものは持っていなかった。大事なのは明日よりその日。うまい酒、食事そして女にありつけるのなら商売道具の最新ライカだって質に入れる。エピキュリアンであり、徹底的に生き強かった。
取材前後に町の一番いいホテルで美女を傍らに置き、そのバー最上のシャンパンを飲んでいる男がいれば、それがキャパなのだ。その抜け目なさは戦場でも彼を救ったはずだ。
のるかそるか。その日暮らしは運しだい。そう、キャパは生粋のギャンブラーだったのだ。
1944年4月、ロンドン。翌々月に予定されていた、おそらくは20世紀最重要の軍事作戦であったノルマンディー上陸作戦、通称Dデイの取材のときも、キャパは運命のダイスに命を預けた。この取材が彼のキャリア上最重要になることを知っていたからだ。
「Dデイの戦闘を目撃した十七万五千人のうち、みずから望んで参加した者はごくわずかだったが、キャパはその一人だった。連隊の士官たちに同行するか、上陸部隊の第一陣に加わるかの選択をせまられたキャパは、命を賭けて後者を選んだ」(アレックス・カーショウ著『血とシャンパン ロバート・キャパ││その生涯と時代』)
キャパらが英仏海峡を渡って上陸する予定のオマハビーチには歴史上最も厳重な防衛線がドイツ軍の指揮官ロンメルによって敷かれているはずだった。戦争取材ではベテランだったキャパもさすがに恐怖におののいた。だが同僚の記者やカメラマンがそれを深酒で紛らわしているなかで、キャパだけはいかにもギャンブラーらしく、ポーカーに興じることで恐れと戦っていた。
Robert Capa
6月6日、世紀の作戦は開始された。キャパが加わった第1歩兵師団第16連隊の上陸艇もオマハビーチのイージーレッド区に向かったが、集中豪雨のようなドイツ軍の砲撃、射撃が上陸部隊を襲う。
そのときの様子をキャパは自著『ちょっとピンボケ』でこう回想している。「フィルムのないからっぽのカメラが手の中でふるえていた。予期しない、新たな恐怖が頭のてっぺんから足のつま先まで私をゆすぶって、顔のゆがんでゆくのが自分にもかんじられた。(中略)まわりの死んだ兵隊たちは、いまは身動き一つせずに横たわっている」
しかしこの絶望的な状況のなかでもキャパのコンタックスは106枚の決定的瞬間を記録している。賭けに勝ったのだ。ところが運命の女神はそうすんなりとはキャパに一人勝ちを許さなかった。
キャパの写真を現像した暗室助手は興奮のあまりフィルムの乳剤を溶かしてしまい、106枚のうち8枚しか救えなかったのである。それを掲載した当時のアメリカ最大のグラフ誌は熱気でぼけたその写真に「キャパの手はふるえていた」という真っ赤なウソのキャプションをつけたのだ。
戦場カメラマンとしての栄誉のすべてをその写真で射止め、最も危険なゲームから降りてもいいはずであったが、キャパはその後も戦地の撮影から引かず、1954年日本を訪れた後にまわった第一次インドシナ戦闘の地ベトナムで地雷爆発に巻き込まれ没した。
ギャンブラー・キャパ、40歳。命のチップはそのときもう既につきていたのかもしれない。
- TEXT :
- 林 信朗 服飾評論家
- BY :
- 2014年MEN'S Precious 春号、孤高のダンディズム烈伝より
- クレジット :
- 文=林 信朗 イラスト=木村タカヒロ レイアウト=杉坂和俊