ロンドンには数多くの伝説を持つバーが存在する

 セント・ジェームスにある創業1908年のホテル、「デュークス ロンドン」にある「デュークス・バー」はその中でも特別な輝きを放っている。

 このヴィクトリアン・スタイルの瀟洒(しょうしゃ)なホテルは英国王ヘンリー8世と愛人アン・ブーリンとの逢い引きの場所であり、代々の王室関係者や貴族のプライベート・レジデンスだった歴史を持つ。表通りのセント・ジェームス・ストリートからは発見することができない奥まった場所にあり、いかにも隠れ家めいた雰囲気がある。

 私の英国人の友人達もこのバーの熱烈なファンであり、界隈には有名なバーが数多くあるにも関わらず、彼らはいつも「デュークス」に行きたがる。こじんまりしたこのバーは居心地が良く、常に驚くほどの人々で賑わっており、いつ訪れても席を見つけるのが大変なのだが、不思議なことにいつも席は見つかるのである。

 このバーを特別な存在にしているものは、もちろん007に因んだドライ・マティーニだが、伝統あるホテルのバーがひしめくロンドンでも、「彼に会いに行こう」と言われる特徴的なバーマンは意外に少ない。この道45年の経験を持つヘッド・バーマンのアレッサンドロ・パラッツィ氏はその数少ないひとりである。

Vodka martini, shaken, not stirred
ウォッカ・マティーニ、ステアせず、シェイクで

イタリア人のアレッサンドロはパリのジョルジュ・サンクやザ・リッツなど名だたるホテルで働き、日本では日本バーテンダー協会の要請でセミナーなども開催する、この世界の第一人者だ。©︎Luke Carby

 身体によく馴染んだホワイトジャケットに、無駄のないエレガントな物腰でカクテルをつくる様はひとつの儀式のようにも見える。人を寛がせる独特の話術には接客のプロフェッショナル特有の礼儀正しさと温かさがある。

「Vodka martini, shaken, not stirred
ウォッカ・マティーニ、ステアせず、シェイクで」

 この台詞に聞き覚えのある読者も多いことだろう。

 007第一作『ドクター・ノオ』(1962年)でジェームズ・ボンドがオーダーし、一躍有名になったのがこのウォッカ・マティーニだ。

「フレミングの小説は映画よりもっと深く、複雑です。1940年代、カクテルはエリートが飲むものでした。マティーニは必ずジンで作られ、ディナーかランチの前に飲むものと決まっていました。紳士はディナーの後にはヴィンテージ・ポートかコニャックしか飲まなかったのです。今、マティーニはディナーの後にも注文されますが、フレミングの時代にはあらゆることにルールがありました。彼はボンドに敢えてマティーニをウォッカで、しかもステアではなくシェイクでと、そのルールを破らせたのです。フレミング自身はマティーニ・ドリンカーではありませんでした。ブードルズ(フレミングが会員だった世界で二番目に古い歴史を持つジェントルメンズ・クラブ)にいて他のメンバーとマティーニを嗜む時を除いて、彼はシャンパンとウィスキーを好んでいました。ボンドにこのルールを破らせたことで、マティーニは万人に愛されるカクテルになったのです」

「デュークス・バー」はワゴン・サービスでカクテルを作り始めたロンドンで最初のホテルでもある。今でもその伝統を踏襲し、カクテルは客の目の前で作られる。©Luke Carby

 では早速、ドライ・マティーニを頼んでみよう。

「マティーニはジンにするか、ウォッカにするか、どちらがいいでしょう?」とアレッサンドロは柔らかな笑みを浮かべた。「フレミングはジンを、ボンドはウォッカを好んでいましたが、人の好みはそれぞれだから、お好きなものを頼んだ方が良いですよ」

 今回はアレッサンドロお薦めのロンドンで蒸留されている「セイクレッド・ジン」で頼むことにする。初めて飲むジンだが、プロフェッショナルの薦めには素直に従うことにしている。そこにはいつも学ぶことが多くあるからだ。

 セイクレッド・ジンは2009年、ロンドン北部のハイゲートに設立されたマイクロ・ディスティラリーで12種類のボタニカルを使用し、アルコール度数は43.8%、ボタニカルのフレッシュなフレーバーが特徴だ。

「大手のメーカーのジンも各種揃えていますが、ジンは世界中で作られるようになって、もはや英国だけがフロンティアではない。友人が経営している日本初のジン「季の美」も気に入っています。ワインもウィスキーも同じですね。どこで作られるかというより、誰がどうやって作っているのか、製品の裏にあるパッションに興味があるのです。これが私の哲学です」

「まず重要なのはシンプリシティSimplicity(シンプルであるということ)。マティーニの材料はシンプルです。ジンかウォッカ、ヴェルモット、レモン、この三つだけ。次に重要なものは温度です。グラスとスピリッツはフリーザーから使う直前に出したものでないといけません。シンプルに作る方が難しい。日本料理とイタリア料理は似ていて、その共通点はシンプリシティです。その違いは飲めばわかります」

ヴェルモットは前述のセイクレッドと共同開発した「デュークス」オリジナルのドライ・ヴェルモットを使用。英国産のワインを使用し、ドライでスパイしーなフレーバーがある。レモンはイタリア、アマルフィのオーガニックのもののみを使用している。

A Martini a day keeps the doctor away
一日一杯のマティーニは医者を遠ざける

アレッサンドロは厳粛な儀式のように、霜のついたグラスにヴェルモットをほんの少量注ぎ、グラスを傾けて香りを移すと、そこにジンを注ぎ、最後にレモンを注意深くひねり、これも香りをくわえると、最後にデコレーションとしてレモンピールを添えた。©Luke Carby

 これ以上あり得ないほど、ドライでピュアなマティーニだ。ワックスのような鮮烈なレモンの香りが鼻腔をくすぐる。ジンの強烈なアルコール臭とジュニパーの香り。一口飲むと、身体の中で冷徹な焔のように熱く燃え上がる。身体の奥底で広がる至福の感覚と酔いが同時にゆるやかにやってくる。だが、急いではいけない。ウィンストン・チャーチルも好んだ、このように究極にドライなマティーニは、ゆっくりと時間をかけて楽しむべきなのだ。さもなければ、一日が急速に終わりを迎えてしまう。

 他にも数多くのオリジナル・マティーニがメニューに掲載されているが、そこにも多くの謎解きが隠されていると、アレッサンドロは微笑んだ。

 例えば、小説『007 カジノ・ロワイヤル』(1953年)に登場する「ヴェスパー・マティーニ」は、ボンドの恋人ヴェスパー・リンドから名前が取られている。

「このマティーニにはジンとウォッカ、ふたつのスピリッツが用いられている。そこにヴェスパーが二重スパイであることを示唆するダブル・ミーニングが込められているんです」

 さらに「89ジャーミン・ストリート」というカクテルは香水商「フローリス」のアドレスから命名されている。イアン・フレミングは「フローリス」の「No.89」を愛用し、小説『ドクター・ノオ』(1958年)にもこのフレグランスが登場する。アレッサンドロは「フローリス」からこの調合を訊き、このフレグランスと同じ成分であるローズとトンカ豆を使ったカクテルを考案した。このカクテルにはローズ・リキュールとトンカ豆で香りづけしたウォッカが使われている。

 彼は小説を書くようにバー・メニューを作っていると語った。

 確かに、メニューの冒頭には彼自身の言葉があり、マティーニを好む酒飲みの罪悪感を和らげるのに、多大な効果を発揮していた。それが冒頭の言葉、「A Martini a day keeps the doctor away (一日一杯のマティーニは医者を遠ざける)」である。

 今回も長くなってしまったようなので、後編に続きます。

Dukes London
デュークス ロンドン
この記事の執筆者
ジャーナリスト。イギリスとイタリアを中心にヨーロッパの魅力をクラフツマンシップと文化の視点から紹介。メンズスタイルに関する記事を雑誌中心とする媒体に執筆している。著作『サヴィル・ロウ』『ビスポーク・スタイル』『チャーチル150の名言』等。
PHOTO :
Luke Carby
EDIT&WRITING :
Yoshimi Hasegawa