ニューヨーク、ブルックリンを拠点に活動するシンガーソングライターSt. Vincent(セイント・ヴィンセント)が、ファン待望のニューアルバム『MASSEDUCTION』を10月13日にリリース。聴き手を幻惑する歌声と、奇抜なプレゼンテーション。そして今作のアルバムのテーマ、パワー、セックス、危険な関係と過激なテーマにも注目だ。

セイント・ヴィンセント、現代と向きあう歌声

 女性シンガー(同時にアーティスト)とは、シャーマンなのかもな思う瞬間が、これまでに幾度かあった。古くはビリー・ホリディ、ジャニス・ジョプリン、パティ・スミス、ジョニ・ミッチェル、そしてケイト・ブッシュ。近年になるとビョークやアラニス・モリセットとか、さらにごく最近だとM.I.A.やラナ・デル・レイ、FKAツィッグス等々。もっともリアルタイムでシャーマン性に邂逅したのはケイト・ブッシュあたりからか。よく「歌姫、ディーヴァ」という形容があるが、シャーマン性とはちょっと違うように感じる。ディーヴァにとっては「歌唱」と「歌う身体」が重要なのだが、シャーマン系は歌唱というより「声やサウンド」に、そしてその声を発する女性としての存在感に重点がある、とでもいえるだろうか。あくまで個人的な解釈だが。

 そしてなにより、彼女たちのシャーマンたる所以は、その音楽、そして佇まいが時代そのものだということにある。声や身体を通して発現する時代の質感。時代が彼女たちを選んでいる? いや、もしかしたら彼女たちは文字通り「時代と寝て」いるのかもしれない。そんな風に思わせる存在感が、先にあげた女性アーティストたちからは感じられたのだった。

 ちなみにディーヴァという単語から連想される名前は、アレサ・フランクリンとかビヨンセといったR&B系、またはパトリシア・プティボンやチッチェリア・バルトリらのクラシックの声楽家だったりする。マリア・カラスは悩むところだが、マドンナはむしろディーヴァの範疇な気がする。そうそう、こうしたディーヴァたちに関しては、そのステージアクトに対しては関心が強いものの、プライベートなど彼女たちの実像については、それほど興味が起こらなかったりする。そのへんもシャーマン系と違うところかもしれない。ディーヴァたちのほうが、より歌に関してのプロっぽさ、職業感が強いという印象だ。

 というわけで、前置きが長くなったが、今回紹介するセイント・ヴィンセントは、当方の見立てではシャーマン系である。前作『セイント・ヴィンセント』で、前々作から広がりつつあった人気を決定的にした彼女は、その後女性モデルとの交際が報じられるなど、ゴシップ的にも俄然注目される存在となった。そして10月に発表されたアルバム『Masseduction(マスセダクション)』は、そのタイトルそのままに、女性性を強烈に打ち出しつつ、聴き手を幻惑し圧倒するようなパワーがみなぎっている。

St. Vincent 『Masseduction』

シンガーソングライター、セイント・ヴィンセントのニューアルバム『MASSEDUCTION』10月13日リリース。動画は「Los Ageless」のMV
シンガーソングライター、セイント・ヴィンセントのニューアルバム『MASSEDUCTION』10月13日リリース。動画は「Los Ageless」のMV

 このアルバムの白眉のひとつは、タイトルチューンである「マスセダクション」。どこかのデモからでもとってきたのか、「セイケンノ、フハイ」というシュプレヒコールのサンプリングで始まるこの曲は、断片的に耳に届くリリックともども、パンクなスピリットを感じさせる。その一方で、こうした直截な曲は、セイント・ヴィンセントというアーティストの文脈を通したからこそ、現代において成立し得るのかもしれないとも感じた。同様の感興はまた私小説的な世界観の詞を持つ「ハッピー・バースディ・ジョニー」からも得られた。まるで『パティ・スミス自伝』のいちシーンのような内容は、彼女がここで歌っているからこそ、陳腐にならず迫るものがあるようにも思えた。彼女自身の優れた表現力はもちろんだが、そこにはゴシップなども含めた彼女のイメージが少なからず作用しているのかもしれない。

 それらの曲を含め、アルバムを聴き返すたびに強まるのは、彼女はここで「自身の生(き)の部分」をあえて晒している、という印象だ。扇情的なジャケットのアートワークはそんな思いを裏打ちする。そうした気づきはつまり、感性のどこかが征服されてしまっているサインなのかもしれない。それこそ「マスセダクション」か、しかもそこにはどこか破滅的な予感も漂う。シャーマンというより、もしかしたらハメルンの笛吹きやセイレーンに近いのかもしれない。

 ところで、シャーマンとして彼女は時代の何を暗示(または予言)しているのだろうか。LGBTである(少なくとも表面的には)彼女の音楽の底流にマグマのように溜まっていものと、ここ最近相次いで報じられるアメリカ・ショウビズ界のセクハラ・スキャンダルが連関しているように思えてならない。女と見なされることへの、カテゴライズへの、「」づけへの反発、そして自分は女性シンガー以前に、いち音楽家であり、いちアーティスト、さらにはいち個人であるということ。ダイバーシティが進むにつれより鮮明になってきた「個の尊重」というイシュー。このアルバムでの彼女の表現、佇まいには、そうした状況に対しての意思表示が含まれているように思えてならない。もっとも、セクハラがいまだ社会的に常態化し、ダイバーシティも表面だけの「後進国」日本においては、その歌声はどこか遠く響いてしまうのだが。

この記事の執筆者
『エスクァイア日本版』に約15年在籍し、現在は『男の靴雑誌LAST』編集の傍ら、『MEN'S Precious』他で編集者として活動。『エスクァイア日本版』では音楽担当を長年務め、現在もポップスからクラシック音楽まで幅広く渉猟する日々を送っている。