書斎のあり様は、主のための神聖なるクリエイティブな空間であるべき。本を読む、調べものをする、手紙を書く、思考をめぐらす。何かを創造するために智恵を積み重ねる、その創造の時間を見守る、愛おしく、優れたるステーショナリーが、書斎には存在する。
紫檀の机と万年筆とが生む「閑適」の世界
四十にして惑い、転職を決めた。以来、書斎の人となる。
その人、明窓浄机を好み、明るい窓のある清潔で落ち着いた書斎で、毎朝ウォーミングアップに代えて数通の書簡をしたため、そのあと飽かず小説をものし、文名を百年先の未来にまで轟かせた。
漱石山房と呼ばれたその書斎の主は、言わずと知れた夏目漱石である。彼が書斎に求めたのは「閑適」、心静かに愉しむことだった。
漱石は四十歳のとき、東京帝国大学の講師から朝日新聞の社員に鞍替えし、東京・早稲田に移り住み、住居の隣を書斎とした。月給取りとなるも原則出社の義務はなし。
漱石山房は九年の間に、「虞美人草」「こゝろ」「明暗」など、数多の名作をその主に書かせた。
どてらを着てカメラを凝視する書斎の漱石の写真は、大正三年十二月の撮影。正に同年この紫檀の小机に置かれた原稿用紙の第一行目に、「私はその人を常に先生と呼んでいた」と英国製万年筆オノトで記され、「こゝろ」の原稿が積み重ねられていったわけである。
そして、やはり同年、書斎でこんな書簡も懇切につづられた。
ある門下生には内心を吐露した。「世の中にすきな人は段々なくなります、そうして天と地と草と木が美しく見えてきます、ことに此頃の春の光は甚だ好いのです、私は夫それをたよりに生きています」
また、「こゝろ」を読んだ小学生には、こう率直に返信した。「あれは子供がよんでためになるものじゃありませんからおよしなさい」
漱石は書斎に蟄居して世俗の騒音を絶ち、悠然と沈思し黙考を重ね、醸成させた芳醇な思いを文字に託し、外界へ発信したのだった。
そもそも、稀代の文豪を育むことさえある装置、書斎とは何か。辞書によれば、本を読んだり、書き物をしたり、研究したりするための部屋、とある。英語で書斎は「Study」、ドイツ語は「Studies(ストゥーディア)」、フランス語は「étude(エチュード)」。いずれの語にも書斎のほかに研究という意味もある。
さらに「斎」に注目し原意を調べると、凄惨で神聖な儀式の象形が含まれていた。
「斎」は本来、神を迎えるためにいけにえを捧げ、一定期間心身を清く保つことを意味する。転じて、俗世から隔絶された空間で雑念を払い集中し、研究するための場所も「斎」と呼んだ。
そこで、書斎における品々もまた、集中を支援する役割を担うことになる。それは漱石の場合、万年筆のオノトであり、紫檀の小机であり、さらには書斎に備わるその他の各種アイテムだった。
漱石は自らデザイン画を描き、青銅製のインク壺ふたつを発注した。そしてインクの色もセピアにこだわった。ブルーブラックは教師生活で帳面をつけていた色だから、集中を乱すという理由で嫌った。
ところで、漱石は自らの神聖な書斎の机に、どのようないけにえを置いたのだろうか。
古代アステカの石の祭壇には、人の心臓が捧げられた。漱石は「こゝろ」を紫檀の机上に載せ、結果、詩神を迎え入れることに成功し、書斎における心静かな愉しみ、閑適に包まれたのだった。
到達したその境地の一端は、次の一文によって想像できるだろう。四十九歳の漱石から、漱石を敬愛した二十四歳の芥川龍之介に送られた書簡の中に含まれる言葉だ。「私はこんな長い手紙をただ書くのです。永い日が何時迄もつづいて何どうしても日が暮れないという証拠に書くのです。そういう心持ちの中に入っている自分を君等に紹介する為に書くのです。夫からそういう心持ちでいる事を自分で味わってみるために書くのです」
漱石はこの書簡の四か月後に逝去し、その後結婚した芥川に、漱石の妻から祝い金が渡された。芥川は迷わずその金で紫檀の小机を購入した。それは無論漱石の小机と酷似するものだった。芥川もまた紫檀の机で多くの名品を生んだ。
漱石、芥川に倣い、書斎とその演出者たちの力を借り、俗臭に穢れ俗情に煩う索漠荒涼とした胸中を、温和静穏の時で埋め尽くすことがもしできれば幸いこの上ない。(文・中川 越)
書斎の静かな空気の中で綴る喜びが増していく
万年筆3大ブランド
「そりゃあ万年筆というのは、男が外に出ている場合は、それは男の武器だからねえ、刀のようなものだからねえ」『男の作法』(新潮文庫刊)と万年筆を語るのは作家・池波正太郎だ。さらには、人の目に付きやすいものではなく、実際に仕事に使うものに凝るべきだと、伊達男の心意気を説く。
英国の名門パーカーの『デュオフォールド』は、ジャズエイジ華やかなりし頃に生まれた。天冠にエースの紋章、18金のペン先、熟練の職人が手作業で組み立てる。多くの有名人に愛用されていた名品だ。その後の常識となる毛細管現象を利用した万年筆を生み出した、ウォーターマン。精緻な加工が施された『エクセプション ナイト&デイ プラチナST』は、ペン先に見事な意匠を備え、筆記具を超えた優雅さを醸し出す。エス・テー・デュポンの『ブラック・マザー・オブ・パール』に使われるのは、真珠を育む天然の黒蝶貝。虹色に輝く同軸が唯一無二の存在感を放つ。
池波正太郎のような名文は容易には書けないが、いずれの名万年筆も伊達男を彩る武器となるはずだ。(文・フリー編集者/小暮昌弘)
知る人ぞ知る、ヨーロッパのプレミアムペーパーメーカー
グムンドの『メモリーブック』
毎年2月末〜3月上旬の風物詩、米アカデミー賞の授賞式。今年は俳優のレオナルド・ディカプリオが悲願のオスカーを手にしたが、彼がオスカー像と一緒に手にしていた金色の封筒、受賞者の名が記された紙が入っているあの封筒は、ドイツGMUND/グムンド社の製品。その名も『オスカーペーパー』という。グムンドは1829年創業の、ヨーロッパを代表する紙の名門。同社の上質紙は知る人ぞ知る存在でありエルメスやBMW、ポルシェといった一流ブランドがカタログ用紙として採用している。カール・ラガーフェルドも昨年、同社の紙でインスタレーションを行った。
紙以外の文房具にも良品が多く、この『メモリーブック』は結婚式やパーティ、各種イベントなどで見かける芳名帳。二重に折られたページを採用しているので、油性マジックや筆書きも文字の裏写りがなく、筆の走りが信じられないほどいい。(文・モノマガジン編集ディレクター/土居輝彦)
鉄の重さが愛着につながる日本伝統素材の文房具
ババグーリの南部鉄器の朱肉入れ
封蠟というレトロな作法を書斎で愉しむ
エルバンのシーリングワックス
「信書」という用語がある。請求書など、オフィシャルな文書を指すと思われがちだが、郵便法には「特定の受取人に対し、差出人の意思を表示し、又は事実を通知する文書」と規定され、その隠匿や無断開封には罰則がある。他方電子メールは、準文書として扱われる場合があるが、現行法に明確な規定はない。私たちにとって未だ信頼性の高い通信手段は、実は信書、つまり手紙のやりとりかもしれない。 そして、手紙の秘密性を保証するものとして古より使われてきたのが「封蠟」だった。封筒のフラップの先端に熱した蠟を垂らして封をし、差出人を象徴する模様が施された印璽を熱が残る蠟に押す。 21世紀の今日、封蠟は形骸化した、レトロな作法かもしれない。しかし封蠟を施された書状には、唯一無二な、触覚に訴える存在感がある。それは握手を交わすのにも似て、折目正しく、直截な信頼感をもたらす。(文・編集者/菅原幸裕)
机上でラグジュアリーな存在感を魅せる黒の名品
ラルフ ローレンのフォトフレームと置き時計
ジョージアン様式の邸宅。マホガニーのデスク。純銀のティーセット。ちょうどいい具合に(ここがポイント)汚れたクリケットのマレット……。
ラルフ ローレンという名前を聞くだけで、おとぎ話のように豊かなイメージが脳髄を駆け巡る。それも仕方がないだろう。だって彼が50年近くにわたって私たちに見せてくれたのは、単なる洋服や香水といった「モノ」ではない。伝統的かつ贅沢な、究極の暮らしの「イメージ」だったのだから。
欧米人でも上流階級でもない私にとってその世界は見果てぬファンタジーだが、机上くらいは夢を見たって許されるだろう。というわけで私のアンティークのデスクの上には、このブランドのフォトフレームや置き時計が飾られている。それはたった2平米に満たないささやかなラルフ ローレンワールドではあるが、私の心を1920年代のニューヨークに誘うくらいの引力は持っているのだ。(文・本誌ファッションディレクター/山下英介)
秀逸なデザインで伝統を超えて今も輝き続ける
アングルポイズのデスクランプ
英国の郵便局ロイヤルメールには「英国を代表する10のデザイン」という切手シリーズがある。その中でミニスカートやコンコルド、車のミニ、二階建てバス等と並んでセレクトされているのが、この〝アングルポイズ〞の照明器具『オリジナル1227』。バネ式照明ランプの最初の形であり、その後のデスクランプのデザインに大きな影響を与えた名品だ。
エンジニアのジョージ・カワーダインが考案し、初めて製品化されたのは1932年。彼は自動車用のスプリングを使って重量バランスの技術的な理論を考案し、この照明史に残る傑作品『1227』を生み出した。その後、多くのシリーズが製品化されたが、2003年のケネス・グランジのリデザイン・モデルで再注目を集めることに。マーガレットハウエルや昨年ポール・スミスもコラボレーションモデルを発表するなど、登場から80年過ぎた今も、その秀逸なデザインでクリエイターたちを刺激し続けている。(文・土居輝彦)
スタイリスト石川英治が選んだ書斎の名品
ルイ・ヴィトンのインクボトル
サンルイのペーパーウェイト
「書斎は一生をかけて完成させるもの」と思っている。
幸せなことにスタイリストという仕事柄、沢山のものと出合う機会に恵まれてきた。その中から、書斎という私的空間で共存したいと選ぶものは、ライティングによって光り輝くもの、無機質で重厚なものが多い。それぞれのディテールや素材がホンモノであることが重要だ。
私は、考える時間の多くを書斎で過ごす。たとえば、サンルイのクリスタルのペーパーウェイトを覗き込む。すると、吸い込まれるような透明度に、崇高なほどの技術を感じて時間を忘れてしまう。こうやって、脳を一度リセットする瞬間が、アイディアの起点・原点になることがあるのだ。
クリスタルやゴールド、シルバー、それらの煌めきは、歳を重ねることで、褪せて、穏やかなオーラへと変わっていく。私は、そのやわらかな変化の中に身を置いていたい。
その切れ味にドイツ・ゾーリンゲンの技が宿る
アドラーのハサミ
子供の頃、毎朝父親が丹念に髭を剃っていたナイフがゾーリンゲンを知った初めかもしれない。
学生のとき、日本橋木屋のウインドー越しに包丁や鋏の形状が面白く、様々な刃物に見入っていた中にアドラーの鋏もあった。
仕事柄「鋏」とは切っても切ることのできない間柄だが、「バカとハサミは使いよう」と言うように、2枚の刃を指で挟んで上手く切るには、指と鋏の最先端が一体化していなければならない。
毎晩帰宅すると鋏を片手に新聞を読む習慣だが、紙を切る「サクサク」とした耳に心地よい音なくして、一日の終わりは来ない。
アドラーの昔ながらのベルト式鍛造ハンマーもいまだ現役と聞いて納得。服づくりもまた手間とひまをかけて丁寧につくり込んだ物は、使い手に心が伝わるもの。
それにしても昨今の新聞や雑誌には、切り抜きたくなる記事が少ないのは淋しい限り。アドラーの鋏がいつでも仕事を待っているというのに。(文・ファッションディレクター/赤峰幸生)
行単位のピンポイントで重要な部分を示す
ブックダーツのクリップ
ブックダーツは、薄い金属でつくられたクリップだ。挟む相手は、1枚の紙。本を読んでいて、気になった箇所に差し込んで使う。ダーツ状に先端が細くなっているので、重要な部分を行単位のピンポイントで示せる。縦書きの本なら縦に、横書きの本なら横からクリップする。くり返し使えるし、ラインマーカーなどとは異なり本を汚さない。
しなやかさと堅牢性を兼ね備え、辞書のような薄い紙でも抜け落ちることなく挟むことができる。数多くクリップしても厚さや重さが増した印象はなく、ページをめくる動作にストレスを感じることもない。
素材はステンレス、銅、真鍮の3種類あるので、自分流に分類してマーキングするのにも役立つ。極めてスマートに本の中から再読すべき場所を示してくれるが、小さな金属片であることから乳幼児やペットによる誤飲には注意したい。もっとも、自分以外のだれも入ることが許されない大人の書斎の中で使うのなら、このような心配はもちろん不要だ。(文・ライター/ガンダーラ井上)
万年筆で書く行為を〆る伝統的な愛すべき実用品
モンブランのインクブロッター
かつて机上の必需品でありながら、今は使う人がめっきり減ったインクブロッター(インク吸い取り器)。だが使ってみると、太字の万年筆を好む人には必需品だと実感できる。書いた直後、インクブロッターを筆跡の上でコロンと転がせば、余分なインクが吸い取られ、文字が綺麗に定着。指を汚したり、重ねた紙にインクが移ることもない。
また単に実用的なだけでなく、万年筆で書き、ブロッターを使う、という一連の所作は、実に古典的で密かな満足感を与えてくれもする。
万年筆の名門モンブランにも、このインクブロッターがある。全面がイタリア産フルグレインカーフスキン張りで仕上げられ、雰囲気は重厚そのもの。実際にも重いのだが、これがプラスに作用し、軽い力で確実に仕事をこなしてくれる。
机上にあっては、決して目立つ存在ではないインクブロッター。だが、そこにあるだけで威厳と伝統を感じさせる、希有な名品である。(文・ライター/名畑政治)
書斎とは人生の秘密が詰まった小宇宙/文・宇田川 悟
月刊誌で10年ほど「男の書斎」という記事を連載したことがある。登場したのは著名な小説家や詩人、学者や俳優、音楽家やデザイナーなど約120人。人選は一任された。時には友人の人脈を借りながら進めた。取材にかこつけて友人知人との旧交を温める機会にもなった。だが、いつもすんなり決まるわけではない。
中には、トイレなら構わないけれど書斎を見せるのはどうもね、とやんわり拒否されることも。確かにトイレは書斎と同様、孤独になれる癒しの聖域である。
毎月、人さまの書斎を訪れるという、健全な覗き見みたいな取材だったが、そんな気持ちを超えて、彼らが語る書斎の話に耳を傾けていると、そこから人生や歴史や仕事や思想が透けて見えてきて、何物にも替えがたいスリリングな体験となった。
書斎は個性を反映していて、極めてオーソドックスな書斎からミステリアスなものやファンタスティックなものまで多様性に富んでいる。時には想像していたのとはまったく異なり、納得したり感心したり、拍子抜けすることもあった。
机に向かう姿も様々。例えば、愛用の万年筆を手に、まるで大地に近づくかのように書斎の畳に正座して机に向かう詩人。強く印象に残ったのが、その机の上に並んだバラエティに富んだ色インクの瓶。日本を代表する詩人である彼の五感に訴える詩の世界にあふれる言葉は、幾つもの色インクで紡ぎだされていたのだ。
また、書斎の鍵を施錠して籠もるという儀式を欠かさない俳優は、古風な机で書をしたためてから、おもむろに読書に耽ったり台本に目を通す。あるいは、書斎を穴倉と呼び、家族と隔絶した環境に身を置く作家がいる。重厚な作品は書斎で執筆し、エッセイは書斎に続く居間で、と書き分ける作家がいれば、独特な空気感が漂う書斎で演出の構想を練る演出家がいる。
書斎に入って気づくのは、書棚とインテリアと佇まいに、主の知的体験や脳内構造が反映されているらしいことだ。みなさんある時期、徹底的に真摯に読書体験という熱いシャワーを浴びていることが分かる。その痕跡が、人によって濃淡はあるが書斎のあちこちに刻印されている。
考えてみたら、書斎を取材するというのは贅沢な仕事かもしれない。普段は滅多に他人を招き入れないだろうし、中には家族さえ入室を拒むようなアンタッチャブルで聖なる磁場なのだから。そこにずかずか踏み込むわけで、緊張しないといえば噓になる。だが、いつも高揚感が勝っていた。つくづく思うのは、ミクロコスモスである書斎には創造の秘密が隠されていることだ。
書斎に入った瞬間、「東京より日本は広い。日本より……頭の中の方が広いでしょう」と書いた夏目漱石の文章が頭をよぎった。書斎は人間の頭の中を鍛える特権的な場だと気づかせられたのである。
※価格はすべて税抜です。※2016年春号掲載時の情報です。
- TEXT :
- MEN'S Precious編集部
- BY :
- MEN'S Precious2016年春号 静謐なる「書斎の名品」より
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- クレジット :
- 撮影/戸田嘉昭、唐澤光也(パイルドライバー)、荒木大甫 スタイリスト/石川英治(tablerockstudio) 構成/堀 けいこ