音楽は時間を支配する、または、聴き手の感覚を占拠する。そんなことを改めて思い知らされた経験だった。環境音として「鳴っている音楽」、またはヘッドフォンで聴取する「作業のための行進曲的音楽」にすっかり慣れてしまった耳が、久々にふたつのスピーカーの間で身じろぎひとつできなかった。そのピアノサウンドはまた、はるか昔、少年時代の音楽経験を、思い起こさせた。両者は繋がっている。
その両者とは、高橋悠治が弾く新旧のサティ録音だ。1980年代、イエロー・マジック・オーケストラと出合い、自ら選んで聴く音楽の面白さを味わった少年は、細野晴臣・高橋幸宏・坂本龍一という3人のメンバーに関連する情報を、できる限り(といっても地方の中学生にできることは限られていたが)取り込もうとしていた。そして坂本龍一との繋がりで知ったのが、高橋悠治の存在だった。高橋をゲストに招いた坂本のFM番組を聞き、本本堂という出版社から刊行されていた高橋と坂本の共著『長電話』を立ち読みし、ふたりの間にあった音楽的な関係をろくに理解できないままに、ただ憧れ、知ろうとしていた。
たぶん当時イエロー・マジック・オーケストラ関連の特集として組まれていたFM番組を通じてだったと思う、高橋悠治が演奏するサティの「ジムノペディ」を聴いた。いわゆる現代音楽家、または水牛楽団としてアジアっぽい音楽(それらがプロテストソングとわかるのはずいぶん後になってからだ)を演奏する人として、「なんだかよくわからない存在」だった高橋悠治が、その時はいくらか身近に感じられたものだった。同時にエリック・サティという作曲家も初めて知った。一音一音が空間に置かれていくような、高橋が弾く「ジムノペディ」。子供の耳はその音楽からモダニズムを感じとり、このようなサウンドが響く都市空間を夢想したものだった。
サティ・ブームを生んだ、高橋悠治のピアノ演奏
その後、現在に至るまでサティを、いくつも、なんども聴いてきた。その中には高橋悠治の一連のサティ録音もあった。近年で印象に残っているのはアレクサンドル・タローの『最後から二番目の思想』と題された2枚組の録音だろうか。ここでは、「ジムノペディ」や「グノシエンヌ」は「(犬のための)本当にぶよぶよした前奏曲」などの曲の間に分けて配され、どこかお口直し的な存在感が漂っている。タローの怜悧でテクニカルな演奏とともに、なるほど面白い構成だなと思う一方で、少し距離感もあった。フランス人であり、そのアプローチにいつも感心していたタローが弾くサティ、ネガティブな感興は、むしろ自分の理解力の低さかもしれないと押し殺した。
去年9月に発売された高橋悠治の『サティ:新・ピアノ作品集』を初めて聴いた際の印象は本稿冒頭の通りだが、過去との連関を感じたのと同時に、自分の心の裡にあったサティ像は、もしかしたら高橋悠治の演奏だったのかもしれないという思いが去来した。そして、だからこそタローの録音に居心地の悪さを感じたのだと合点がいった。
ベルリンで作曲家ヤニス・クセナキスに師事し、アメリカではコンピュータを使った作曲を研究していたという高橋悠治。そうした経歴ゆえか(聴き手の臆断かもしれないが)、高橋による以前のサティ録音には、どこかアブストラクトな雰囲気、ミニマルな印象があった。それゆえに、クラフトワークやイエロー・マジック・オーケストラを日常的に聴いていた当時の自分にとって、受け容れやすかったともいえる。現代のコンピュータが生む音楽に比べて、80年代前半に親しんでいた電子音楽はクリアで人工的なサウンドが主だった。そういえば、当時FM番組で、ライブ直後のイエロー・マジック・オーケストラに取材者が発した「これからもさらに冷たくなるのですか」という質問に、細野晴臣が「もっと冷たくなります」と答えていたことをよく覚えている。この「冷たさ」とは、観客に媚びない彼らのステージアクトを直接的には指していたが、ヒューマンなもの、手作業などで生み出されるオーガニックな味わいとは逆の、冷徹な知性やプログラムによって生み出される音楽のことを表していると、自分では捉えていた。そしてそのクールさに憧れ、それと似た感触を、子供ながらに高橋悠治のサティに感じたのだった。
前作から40年ぶりに録音された『サティ:新・ピアノ作品集』を聴き重ねるうちに、旧録との繋がりを感じつつも、少し異なる印象も、新録から受けた。かつての録音では「音を配置している」ように感じた高橋のピアノ演奏は、新録ではどこかつぶやきにも似た、緩いグルーヴが感じられた。熟考を経て発せられたかのような音が、時間を伴い音楽として繋がっていく。そう、どこか熟した風情があるのだ。果実が熟し、自然と地面にぽとりと落ちるような、そんな響き。
旧録と新録を比較して聴いた際に、新録でひときわ印象に残ったのが、後半の「ノクチュルヌ」だった。サティ晩年の作品というが、旧録では森の中を彷徨うような迷走感があった。新録では、ひとつひとつの音に確信のようなものが感じられ、音を追うことの面白味を覚えたのだった。音の連なりに自分の意識が乗っかっていくような感覚とでもいえるだろうか。
ところで、高橋はバッハ弾きとしても知られているが、時間を隔てた再録音ということで、グレン・グールドのふたつの『ゴルトベルク変奏曲』を連想する人がいるかもしれない(私もそのひとりだ)。グールドにおいても、「速さ」と「軽快さ」で鮮烈なデビュー作となった最初の録音と比べると、晩年の録音のほうがゆったりと、「噛んで含める」ような演奏になっている(鼻歌付きでもある)。高橋悠治によるふたつのサティとの類似を語るのはナンセンスだと重々承知で、それでもなお、二者の再録音に共通するなにかを、感じてしまう。それは、演奏者の音楽に関する理解の深さと、その理解を超えてなお広がる音楽の奥行きに挑戦する意志、それらが並存している状態とでもいえるだろうか。
- TEXT :
- 菅原幸裕 編集者