【目次】

高輪ってどこにあるの?「場所」と「地図」

高輪の「場所」

港区を代表する高級住宅街で、JR山手線「品川駅」から西へ白金に向かって広がる丘陵地です。港区の南部に位置しており、高輪1丁目から4丁目まであります。 『忠臣蔵』で知られる泉岳寺をはじめとした由緒のある寺社が多く、緑豊かなエリアでもあります。

泉岳寺は江戸時代の赤穂藩主・浅野家の菩提寺。赤穂義士として海外でも有名な四十七士の墓があります。忠臣蔵の舞台として、歌舞伎や講談などでもたくさん取り上げられている場所です。
泉岳寺は江戸時代の赤穂藩主・浅野家の菩提寺。赤穂義士として海外でも有名な四十七士の墓があります。忠臣蔵の舞台として、歌舞伎や講談などでもたくさん取り上げられている場所です。

最寄り駅としてはJR・京浜急行電鉄「品川駅」、JR「高輪ゲートウェイ駅」、都営地下鉄浅草線・京浜急行電鉄「泉岳寺駅」、都営地下鉄三田線・東京メトロ南北線「白金高輪駅」、都営地下鉄浅草線「高輪台駅」などがある。羽田空港へのアクセスが良いのも特徴です。

高輪の「地図」

高輪の「歴史」

令和2年(2020年)に山手線に「高輪ゲートウェイ駅」が誕生。山手線に新駅ができるのは久しぶり。
令和2年(2020年)に山手線に「高輪ゲートウェイ駅」が誕生。山手線に新駅ができるのは久しぶり。

高輪の「由来」とは?

高輪の歴史は戦国時代がはじまりです。大永5年(1524年)の「軍記物語」に江戸城を攻めた小田原「北条軍」が「上杉軍」と激戦を繰り広げた地として「高縄(たかなわ)原」が登場しています。高縄とは、高台にある真っ直ぐな道を意味しているのだそう。 高鼻和、高名輪、高縄、高畷など、時代によって様々な表記があったようですが、現在の“高輪”に落ちついたのは、江戸時代の「正保郷帳(1640年ごろ)」にある記録が最初とされています。

高輪地区は、古くから海沿いに人家が点在していました。徳川家康の江戸入府以降、幕府が参勤交代のために東海道を整備し、街道沿いが飛躍的に発展しました。その賑わいは、江戸の出入口に位置する品川宿までつながっていたといいます。丘陵地には江戸時代には寺社地と武家屋敷があり、明治以降は宮邸や華族などの大邸宅となります。今でも、高台にある二本榎通り周辺には、財界人などの大邸宅が立ち並ぶ静かな高級住宅街です。高輪地区には、当時の歴史を伝えるさまざまな史跡が残されています。ご紹介しましょう。

史跡1:高輪大木戸跡

旧東海道である国道15号線(第一京浜)の泉岳寺駅付近には、「高輪大木戸」の石垣が今でも残されています。
旧東海道である国道15号線(第一京浜)の泉岳寺駅付近には、「高輪大木戸」の石垣が今でも残されています。

大木戸とは、江戸内外の境界に設けられた簡易的な関所のこと。「高輪大木戸」は、東海道の南の玄関口として、治安維持などに重要な役割を担っていたようです。街道沿いには、茶屋などが多くあり、月見の名所としても賑わっていたので、当時の浮世絵にも多く描かれている場所です。「高輪大木戸」は伊能忠敬が日本全国の海岸線測量の起点とした場所でもあります。

史跡2:高輪築堤跡

日本初の鉄道は明治5年(1872年)にこの地で開業しました。新橋から横浜までの29kmを走るものです。鉄道用の堤として築かれた、「海上築堤」は、高輪海岸に沿って海上に築かれたことからこう呼ばれるようになり、その風景は多くの錦絵にも描かれました。

本芝から高輪海岸を経て品川停車場までの2.7kmの間、会場に路線をつくるために気づかれた建造物。なので、線路より東側は当時は海でした。
本芝から高輪海岸を経て品川停車場までの2.7kmの間、海上に路線をつくるために築かれた建造物。線路より東側は海でした。

この鉄道は50年ほど使われていましたが、大正時代の東京湾の埋め立て事業とともに姿を消していました。そして、令和2年(2020年)の高輪ゲートウェイ駅の誕生とともに、100年ぶりに発掘されました。

高輪の「歴史」

■1: 歴史的建造物が点在、散歩も楽しい

高輪3丁目と4丁目の間にある坂。坂名の起源は伝わっていないが、ザクロの木があったためではないか。
高輪3丁目と4丁目の間にある坂。坂名の起源は伝わっていないが、ザクロの木があったためではないかと言われています。

品川駅高輪口から西へ、 柘榴坂を上がったところにあるT字路を南北に走る道を二本榎通りと言います。 こちらは古代の東海道だと推定されています。 江戸時代になると、この道に並行して海沿いを通る道が旧東海道と呼ばれました。これが、現在の国道15号線(第一京浜)です。二本榎通り・古代東海道は旧東海道に比べて高台にあります。落ち着いた雰囲気があり、界隈にはお屋敷が複数あった当時の雰囲気を味わうことができます。

二本榎通りにある高輪消防署二本榎出張所。周辺には高い建物がなく、当時は高輪地区のシンボルになっていたという。第一次世界大戦後のドイツ表現主義というデザインで曲線や曲面をモチーフにした設計が特徴的。
二本榎通りにある高輪消防署二本榎出張所。周辺には高い建物がなく、当時は高輪地区のシンボルになっていたという。第一次世界大戦後のドイツ表現主義というデザインで曲線や曲面をモチーフにした設計が特徴的。

二本榎通り沿いには、歴史のあるお店がたくさんあります。お屋敷の御用聞きに行き、良い商品を提供していたという歴史があるこの通り沿いにあるお店は、こだわりのある専門店が多いのが特徴です。大正7年創業の老舗和菓子店「松島屋」、昭和28年創業の和菓子店「玉川屋惣八」、昭和13年創業の骨董美術品店「諸道具みやた」など。大正6年創業の「フヂイテーラー」は昭和の東京オリンピックのユニフォームをてがけたのだそう。

■2:品川駅周辺は再開発中!

高輪ゲートウェイは、もともと、車両基地だった場所にできた。建物は建築家隈研吾氏が設計。屋根や折り紙をモチーフにしているという。無人コンビニなどが試験導入されている。
高輪ゲートウェイは、もともと、車両基地だった場所にできました。建物は建築家隈研吾氏が設計。屋根や折り紙をモチーフにしているそう。無人コンビニなどが試験導入されています。

令和2年(2020年)にできた山手線の新駅「高輪ゲートウェイ」。その駅周辺は5棟の施設が絶賛開発中で、本開業は令和6年(2024年)に予定されています。高輪ゲートウェイ駅から品川駅周辺までデッキが整備され、映画館や水族館、公園などがそろう場所になるのだとか。周辺には高層住宅が建設され、JWマリオットホテル、東京インターナショナルスクールなどもできるのだそう。

■3:緑が豊か

高輪森の公園
「高輪森の公園」は「グランドプリンスホテル新高輪」の隣にあります。このあたりは戦前は北白川宮、竹田宮、朝香宮の宮邸が連なる御用地でした。

高輪3丁目にある「高輪森の公園」は、江戸時代には薩摩藩島津家の下屋敷があったそう。その後宮家の所有地となり、港区により公園になりました。同じく高輪3丁目にある「高輪公園」も邸宅があった場所です。高輪の隣、白金台にある「 国立科学博物館附属自然教育園」も、 江戸時代には高松藩松平家の下屋敷があった場所です。江戸時代に大名屋敷があったところには、今でもたくさんの緑が残されています。

閑静なエリアとして、高級住宅街としても有名な高輪。今後の開発により、またいっそう価値が高まりそうです。

 参考:港区ホームページ、高輪地区情報紙「みなとっぷ」
この記事の執筆者
TEXT :
Precious.jp編集部 
2022.8.30 更新
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PHOTO :
AC
WRITING :
柳堀栄子