銀座からおよそ33㎞という距離にありながら、東京の文化に飲み込まれることなく、独自の気風を育んできた都市、横浜。親しみとある種の畏敬の念をもって「ハマ」と呼ばれる港町のダンディズムを、この街で暮らす作家・松山猛氏が解き明かす。
松山猛が巡る横浜の穴場スポット
アンティークグッズに囲まれたバー「スリーマティーニ」
黄昏時の横浜、山下町の一画を歩くのは、いつも楽しいひと時だ。
山下公園前の海岸には、かつて太平洋航路の花形客船だった氷川丸が係留されていて、戦前昭和時代の、優雅であったろう幻の船旅に誘ってくれる。
そしてそれに向いあう海岸通り沿いには、1927年創業のホテルニューグランドの、石造の旧館が今も、往年の華やかさを誇っている。
そんな風景を見ながら、海岸通りの裏側にあたる通りに歩みを進めると、そこには数軒のバーが立ち並ぶ一角があり、横浜に暮らす者たちや、このエキゾチシズムあふれる街に、迷い込むように吸い寄せられた者たちが、黄昏時ともなれば、魂の安らぎを求めて集まってくるのだ。
なかでも「スリー マティーニ」は、古き良き時代の英国のバーのような、そのたたずまいと、様々なカクテルやウイスキーとともに、心温まるもてなしでわれわれを迎えてくれる。
トラディショナルな洋服を仕立てるテーラーグランド
バーテンダーのひとりが言う。「横浜という街は、大都市であるはずなのに、なぜだかせわしさというものを感じさせないのです」と。
東京などと比べると、横浜にはゆるやかな時間の流れを感じるという人も確かに多い。
ここは大人の街の風格とダンディズムを、さりげない形で残す、稀有な土地柄なのかもしれない。「テーラーグランド」の長谷井孝紀さんも、そんな横浜に魅力を感じ、東京でのテーラー修業の後、横浜に残された古いビルの一室に、2010年、自分の城を構えた人物だ。
海に近いロケーションに店を構えたいと思い、山下町界隈を歩き回って探していたところ、偶然この不思議な魅力を持つ建物を見つけたのだという。
そのインペリアルビルは1930年、昭和5年に横浜で活躍していた、川崎鉄三という建築家が設計したもので、建築当初は外国人向けの長期滞在アパートメントとして建てられたのだという。
海側に大きな窓があり、アンティーク家具が並ぶテーラーには、ハマッ子と呼ばれる地元の紳士や、外国人の顧客も増えた。
それは長谷井さんのつくるスーツやジャケットの趣味の良さや、その暖かい人柄に加えて、このタイムスリップしたような雰囲気を、人々が愛し共有しているからなのだと思う。
英国のヴィンテージウエアや小物を扱うショップライジングサン
横浜を代表するジュエラーCHARMY元町本店
幕末の日本にスイスから通商使節団が訪れたのも、かの国が得意とする時計の、新しい有望なマーケットと考えたからだったろう。
その時代の横浜でビジネスを始めたスイス人の中に、フランソワ・ペルゴや、ジェームス・ファーブル・ブラントという人物がいた。
フランソワ・ペルゴは家族が経営する、ジラール・ペルゴ社の懐中時計を商うために、横浜に商館を構え十数年を費やすのだが、病に倒れ43歳という若さでこの世を去ってしまう。そして同郷のファーブル・ブラントたちによって、彼は山手外国人墓地に葬られたのだった。
長らくその墓所の存在は忘れられていたのだが、今から10年ほど前に横浜在住の、近代時計の歴史を趣味とする人々によって、その墓所が再発見されたのだった。
以来、元町にジュエリーとスイスなどの輸入時計の店を構える「CHARMY」の田中孝太郎さんを中心に、現在のジラール・ペルゴブランドの輸入代理店によって、毎年フランソワ・ペルゴの命日に墓参し、彼が果たそうとした、スイスと日本の架け橋になりたかったという「夢」を偲ぶ集まりがもたれている。
そして今年は大正の終わりごろまで、横浜で活躍したというファーブル・ブラントの墓所にもお参りしようという機運が盛り上がっている。
横浜のダンディズムとは、歴史に感謝し、それが残したものを慈しむ、このような横浜人士の心の在りようなのかもしれない。
横浜の歴史を知るなら横浜開港資料館
横浜を象徴する歴史的建造物、横浜開港記念会館
横浜には古い洋館やビルディングがまだまだ残されていて、それもこの街独特の魅力となっている。
特に本町通りや海岸通り、馬車道、そして山手の丘などには、この街がかつて生糸貿易などで栄えた時代の思い出を、その懐に抱えた建物が見受けられる。
大正末の関東大震災や、第二次世界大戦の爆撃などで、多くの名建築が破壊されてしまったが、それがなければ、もっともっと素晴らしい、都市の風景がここにはあっただろう。
戦後この町の中心部の多くが、GHQによって占領され、それによりほかの街に比べて、復興のテンポが遅れたのだという。
だがその復興の遅れが、あまりにもめまぐるしく変化した、戦後の復興期から、横浜の街を皮肉にも守ってきたのかもしれないと僕は思う。
神奈川県庁の塔をキング、税関の塔をクイーン、そして横浜開港記念会館の塔をジャックと、横浜の人々は呼び、そのたたずまいを愛してきた。
もともとこの開港記念会館の建つ土地は、日本美術界の巨人岡倉天心生誕の地だと聞く。
そしてこの建物は、開港50年を記念して、横浜の人々の寄付により、市民のための公会堂として、大正6年に竣工したものだった。大震災で時計塔などを残し、内部のほとんどを焼失したがその後再建された。
ステンドグラスなどの美術工芸的な素晴らしさは、一見の価値があるものだ。
名士たちが贔屓にしていた老舗洋服店、信濃屋
横浜のダンディズムといえば、多くの人々が、馬車道にある「信濃屋」の、白井俊夫さんの存在を思い浮かべるだろう。
この店の歴史は古く、もとは弁天通りにあった小間物店で、外国製品を仕入れたものを、日本人に向けて商い始めたのがその始まりだという。
横浜開港以前はわずか人口800人ほどの半農半漁の寒村であった横浜が、江戸とも近い開港場であるのを商機とみて、たくさんの商人が全国から移住し、活発に輸出入を始めた。外国からの珍しい舶来品の多くが、横浜を基点として流通し、また日本産の生糸が、この港から世界各国に送り出されたのだった。
横浜育ちの白井さんは、戦後の横浜の変遷をよく知る人であり、若い時代からファッションの世界に関わり、「信濃屋」を通じて、ハマのダンディズムをリードしてきた人物だ。
今も戦後に出会ったカントリー&ウエスタン音楽をこよなく愛し、クリスマス・パーティーなどの折に、仲間たちと演奏し歌ってくれるのだ。「テーラーグランド」では年に2回ほど、白井さんを囲んで、往年の洋画を鑑賞し、そのファッションを語らう楽しい集まりがある。この集まりには毎回、様々な形で男のファッションやダンディズムに興味を持つ人々が集まってくるのだが、それも横浜ならではのものではないだろうか。ハマのダンディズムの本質というのは『不易流行』。あくまでもゆるやかなハマの時間の賜物であろう。
※2015年夏号掲載時の情報です。
- TEXT :
- 松山 猛
- BY :
- MEN'S Precious2015年夏号孤高なる“ハマのダンディズム”という流儀より
- クレジット :
- 撮影/篠原宏明 構成/山下英介(本誌)