腕時計に限らず「通」の多い世界では、そこでしか通用しない符丁が少なくない。腕時計の場合も同様なのだが、その中でもミネルバの「キャリバー20」は伝説的な名前といっていいだろう。キャリバーというのはいわゆるムーブメントのことで、各ブランドともに自社のムーブメントを「キャリバーいくつ」、まれには「キャリバー何某」と呼ぶ。つまりはムーブメントを固有名詞化する時のタイトル、「ミスター」「ドクター」みたいなものだと思えばいい。

2018SIHHで発表されたモンブランの新作時計

モンブラン「1858 モノプッシャー クロノグラフ リミテッドエディション 100」

ブロック体のアラビア数字などのディテールも伝統を継承する。いっぽうミネルバの歴史上でも極めて珍しい緑の文字盤が印象的。●自動巻き ●ステンレススティール ●ケース径40mm ●プレテリア製アリゲーター革ストラップ¥3,375,000(モンブラン コンタクトセンター)※予価 ※6月発売予定 ※世界限定100本
ブロック体のアラビア数字などのディテールも伝統を継承する。いっぽうミネルバの歴史上でも極めて珍しい緑の文字盤が印象的。●自動巻き ●ステンレススティール ●ケース径40mm ●プレテリア製アリゲーター革ストラップ¥3,375,000(モンブラン コンタクトセンター)※予価 ※6月発売予定 ※世界限定100本

 つまりは各ブランドで同じ名前のキャリバーがあるに違いないのだが、正式名称「キャリバー13-20CH」はもちろん、通称の「キャリバー20」もミネルバ以外を指すことはまずない。20はミネルバが持つ、腕時計の永久欠番のようなものなのだ。

 キャリバー20は1920年代に誕生し、1970年代にはほぼ造られなくなった。ほぼ、というのはややこしいのだが、能力はあるが造るのをやめたのであって、もしかしたら幾つかは製作したのかもしれない。スイスの山村としか表現しようもないミネルバの本拠地ヴィルレの工房を訪ねた時、明らかに数十年前に削り出しただろう真鍮の部品が引き出しにあるのを、はっきりと見かけた。ただし、その記録はない。

 少なくとも、シースルーバックで販売された形跡はない。キャリバー20はその造形の美しさが評価され、Vの字型と呼ばれるクロノグラフブリッジ(歯車を支える部品)の特有な形状で、はっきりと見分けられる。Vは創業地ヴィルレの頭文字という伝承もある。全てが完璧な光景であるそのムーブメントは、時計技術者以外に眺めることはなく、秘められた悦楽だった。その姿を知られたのは、生産が途絶えたのちに、ヴィンテージ市場を扱うメディアで、裏蓋を開けた写真が広く知られたからだ。

 その幻のムーブメントは、21世紀に入って奇跡を起こした。ミネルバを自社に迎え入れたモンブランが、その後継ムーブメントを望んだのである。しかもそれはいっときだけのことではなかった。例えば、今年のSIHH(ジュネーブ・サロン)で登場した、オリーブグリーンの「1858 モノプッシャー クロノグラフ リミテッドエディション 100」。搭載されたムーブメントは番号をひとつ進める「キャリバー13-21」である。

 モンブランが製作した今年の資料では「キャリバー13-20の直系相続人」という表現が使われている。思い出される限り、この「13-20」、サイズの13(13リーニュ、1リーニュは約2.25ミリ)を外した通称「キャリバー20」の存在を公式に表明したことは稀である。しかも「21」はその跡目を襲名し、血脈を継ぐものだ。

古風なチラネジ付きの大きなテンプと、その上に重なる優美な曲線のスワンネック緩急装置。緩やかなVシェイプを描くのは、ミネルバの証ともいえるクロノグラフブリッジ。最近ではめったにない、ゆとりのある構成美をみせる。
古風なチラネジ付きの大きなテンプと、その上に重なる優美な曲線のスワンネック緩急装置。緩やかなVシェイプを描くのは、ミネルバの証ともいえるクロノグラフブリッジ。最近ではめったにない、ゆとりのある構成美をみせる。

 さらにこの新作では、シースルーバックはカスタムではなく、オリジナルの仕様として実現されている。緑の文字盤とストラップも目に新鮮で、快い。ストラップはフィレンツェにあるモンブランの革工房、プレテリアの作である。私はほぼ2年間、アンティーク市場でミネルバだけを監視していたけれど、グリーンの文字盤は見かけることはなかった。つまりはこの品は、ノスタルジアの産物ではなく、「キャリバー13-20」の一族に生まれた、ほぼ半世紀ぶりの完全なニューモデルである。

小ぶりのサブダイヤルも「キャリバー20」譲り。12時位置にはクラシカルなモンブランロゴを掲げる。グリーンの革ストラップはフィレンツェの自社工房で製作。
小ぶりのサブダイヤルも「キャリバー20」譲り。12時位置にはクラシカルなモンブランロゴを掲げる。グリーンの革ストラップはフィレンツェの自社工房で製作。

 伝説の美女マレーネ・ディートリッヒや原節子がいま二十歳で現れたとしても、男心を蕩かす存在であることは変わらない。それは生まれ年ではなく、資質の問題である。神格に似た存在の正統な後継者も似たところがあって、手巻きクロノグラフでこれだけ魅惑的なスタイルは、稀にしかありえない。いつ登場しても、いつ復活しても好ましく、決して廃れることがない。時計の形をした不可侵なひとつの古典は、しかしその奇跡の新品を生みうるのである。

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この記事の執筆者
桐蔭横浜大学教授、博士(学術)、京都造形芸術大学大学院博士課程修了。著書『腕時計一生もの』(光文社)、『腕時計のこだわり』(ソフトバンク新書)がある。早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校・学習院さくらアカデミーでは、一般受講可能な時計の文化論講座を開講。