一歩外へ出れば、逃れようのない暑さに見舞われる昨今の厳しい夏。せめて目にも涼やかで、美しいものに囲まれることで、心と体を整えて、ひと夏を快適に、豊かに過ごしたいものです。
雑誌『Precious』8月号では、創刊20周年企画として【涼やかに「名品暮らし」】と題し、確かな美意識とスタイルをもつプロフェッショナルの意見を基に夏に涼を呼ぶ、暮らしと装いの名品をご紹介。炎ゆる日々を目に麗しく、快適に。心身を整えてくれる逸品を集めました。
今回は、作家・詩人の川上未映子さんの文章と共に、優れた腕をもつ名人によってつくられたスワトウ手刺繍のハンカチーフをご紹介します。
「夏の模様」
文=川上未映子
夏は、模様がきわだつ季節。どこを見ても、いつも何かがゆれていて、まっすぐに降りそそぐ日射しが落とす影は、ほんの少し青がかる。濃いところ、淡いところ、静かなところ。樹木や雲や街のいろんなものと光がつくる、そんな模様を眺めていると、まるで思い出みたいだなと思う。儚くて、さわることもできないけれど、でもたった今、わたしの目に映っているのは本当のこと。そうささやかれている気持ちになる。夏のある一日をただ歩いているだけで、いくつもの夏を巡っているような。
そんな模様をみつめていると、ときおり吹き抜ける風の涼しさに、思わず目を細めてしまう。感覚が受けとめるもののなかで、涼しさ、というのは、ほかのどれともちがう響きがある。ただ冷たいだけでも、静かなだけでもなく、自分自身がそうでありたい、と思わせる何かがある。涼しさというものからわたしが思いだすひとつの物は、うつくしい汕頭スワトウ刺繍のちいさなハンカチーフ。今から二十年以上もまえに、年上の友人が持っているのを初めて見たとき、その可憐さ、繊細さに、思わず息をのんだ。こんなにうつくしいもので汗や手なんてふいてよいのだろうかとも思ったけれど、彼女はごく自然に、汕頭をひたいや首すじにあて、どこか子どもっぽい笑顔でいろんな話をしてくれた。長いまつげが彼女の頬に落としていたちらちらとゆれる影と夏の模様は、ここでもわたしの記憶のなかで重なりあう。
時は流れ、文筆の仕事をするようになって、わたしは物語のなかでいくつも比喩を書いた。ものごとや感情をまっすぐに差しだすよりも、比喩は、うまくいけばその人の心のより深いところに届けることができる。ある小説で、夏の朝の空気の心地よさ、主人公の小さな決心と、生まれ育った街へむけてひんやりした朝の道をいくときの気持ちを「清潔な折り目のついた洗いたてのハンカチをポケットにそっと入れているような」と表したことがある。自分で書いたものなのに、夏の朝をイメージすると、ときおりこの一文がやってくる。ポケットのなかの、白い小さなハンカチーフの密やかさ。ひんやりとした涼しさとイノセンスと、もう戻れない場所がいっせいに咲くような切なさ。そんなものが、どうしてか、夏には満ちているように思えてしまう。
人はみんな、おなじところにはいられない。これからまだたくさんの物を手に入れて、未知のものに出会っていく人たちもいれば、手放したり、失っていくことのほうが多くなっていく人たちもいる。でも、これまでやってきた夏のことを思いだしながら、これからやってくる夏に顔をあげれば、やっぱり、いつだって風は吹いていて、この今だけがつくる模様をみつめることができる。それは、素晴らしい贈り物だと思うのだ。
スワトウ手刺繍のハンカチーフ
夏の光と影が映し出す白い手刺繍の模様は布の宝石そのもの
伝統的な刺繍技術が母から娘へ連綿と受け継がれる中国南部・汕頭の町に、18世紀、イタリアからレースや刺繍技術が伝わったことで、独自の美学が花開いた繊細な汕頭の手刺繍。1980年代には、数十万人いたともいわれる刺繍職人のなかで、優れた腕をもつ名人によってつくられたコレクションから。
※掲載商品の価格は、税込みです。
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- PHOTO :
- 生田昌士(hannah)
- STYLIST :
- 三好 彩
- EDIT :
- 藤田由美、安村 徹(Precious)