パイプをくわえた本格派名探偵といえば、世界中ほとんどのひとがコナン・ドイルのシャーロック・ホームズを思いうかべるだろう。しかし、ヨーロッパでは必ずしもそうではない。常に3本のパイプをパリ警視庁の自分の机の上に置いているほどのパイプ愛好家で、百本を超える小説に登場。その多くが映画化、テレビドラマ化もされたジュール・メグレ警視も負けず劣らず親しまれている存在だ。つい先ごろも英ITVで、このメグレ警視の新シリーズが『ミスター・ビーン』のローワン・アトキンソン主演という異色の配役でスタートしたばかりであった。

ミステリー界の巨匠

ジョルジュ・シムノン

1903年2月13日生まれ。1989年9月4日没。ベルギー生まれのフランス語作家。「メグレ警視」シリーズの著者であり、フランス語文学を代表する作家のひとり。カンヌ国際映画祭の審査委員長を務めるなど、多方面に影響力をもつ人物だった。1作目の「Pietr-le-Letton」(怪盗ルトン)が1929年に発表され、以来43年もの長きにわたり同シリーズを刊行。ミステリーの系譜を知るうえで、シムノンと、彼が創造したメグレ警視は避けて通れない人物だ。作品はほかに『名探偵エミールの冒険』全4巻(読売新聞社)などがある。

メグレの原作者ジョルジュ・シムノンもまたパイプをこよなく愛した小説家だ。しかし、このシムノンという男前のベルギー人、尋常な尺度では計れない、変格派のダンディなのである。

メグレものを百本以上と書いたが、シムノンは、映画にもなった『仕立て屋の恋』や『雪は汚れていた』などの純文学作品も含めると400本以上の小説を執筆。年1作がざらの作家世界のなかで、その創作力は桁外れのスケールなのだ。

しかもシムノンは小説1作を、平均10日ばかりで仕上げてしまうという早書き。その多作の結果、作品の総発行部数は5億冊を超え、シムノンを20世紀最も稼いだ作家のひとりにした。

シムノンにはもうひとつ桁外れがある。女好きの癖である。映画監督フェデリコ・フェリーニとの対談では「13歳のころから1万人の女性と性的関係を持った」と豪語している。

仕事も私生活も、いったいなにがそこまで彼を駆り立てるのか。

1903年、ベルギーのフランス語圏における商業・文化の中心地、リエージュにシムノンは生まれた。父親は保険会社勤務、母親は下宿を経営。おおむね幸せだった幼少期に突然変化をもたらしたのは、第一次世界大戦である。ドイツ軍によって占領されたリエージュで少年シムノンが目のあたりにしたのは、ドイツ軍の横暴であり、それを受け入れるしかない市民の悲劇と、ドイツ軍に取り入ろうとする同胞たちの狡猾な姿であった。どんなに努力をしても抗うことができない人生における運命の力│。それをシムノンは子供時代に察知してしまったのだろう。

15歳で学校を去ったシムノンは地元の新聞『ガゼット・ド・リエージュ』の記者になり、警察・裁判所回りを担当する。そこでもシムノンは自らの意志ではなく、時代や環境のため犯罪に走ってしまった人間の姿を凝視することになる。書くことが好きだったシムノンはその体験をもとに小説を書き始める。

兵役の後、シムノンは、小説で身を立てるべくパリに旅立つ。作品はそう簡単には売れなかったが、若いシムノンにとって世界中から得体のしれない人間が集まってくる第一次大戦後のパリほど面白い街はなかった。芸術家や犯罪者、酔いどれ……。

彼が小銭を稼いでは入りびたるモンマルトルの売春宿や飲み屋に出入りするそういう連中との付き合いが彼の作家としてのこやしとなり、やがてそれが1929年に世に送ったメグレ第一作に結実していく。

メグレ・シリーズは、まさにシムノン自らが見た運命によって追い詰められ、罪を犯さざるを得なかった人間たちの物語である。メグレは決して犯人を断罪しない。そこに運命の介在を認め、あるがままを理解しようと努め、ときには共感すら抱く。

メグレが「運命の修理人」と呼ばれ、謎解きを主とする凡百のミステリー小説の探偵たちより一段高い席を与えられるのはこのアプローチゆえである。

しかし、実人生において作者シムノンがメグレのような忍耐強い聞き役かというと、どうだろうか。その多作にも表れる常軌を逸した成功欲(シムノンは原稿料にもうるさい男だった)や性欲は、強迫観念に駆られ、一線を越えてしまう作中の犯罪者のほうに近いように思える。事実『ニューヨーカー』誌のインタビューでシムノンはこういう発言をしている。

「ぼくが書いてきた犯罪は、すべて自分が犯しても不思議ではなかったものだ。ぼくはただラッキーなだけだったのだ」

自分のあるがままを理解してくれるメグレのような存在を一番必要とし、その存在によって救済されたのは実はシムノン自身であったようだ。

この記事の執筆者
TEXT :
林 信朗 服飾評論家
BY :
MEN'S Precious2016年夏号ダンディズム烈伝より
『MEN'S CLUB』『Gentry』『DORSO』など、数々のファッション誌の編集長を歴任し、フリーの服飾評論家に。ダンディズムを地で行くセンスと、博覧強記ぶりは業界でも随一。
クレジット :
文/林 信朗 イラスト/木村タカヒロ