【目次】
- 前回のあらすじ
- 好景気に沸くお江戸。蔦重の評判もピークに
- お江戸の女子を夢中にさせた「江戸の三男(さんおとこ)」
- 「階段落ち」ならぬ「階段のぼり」に蔦重の「巣立ち」を見た!
- 次回 『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第24回「げにつれなきは日本橋」のあらすじ
【前回のあらすじ】
第23回「我こそは江戸一利者なり」では、狂歌の大ブームと共に、いよいよ勢いを増す蔦屋重三郎(横浜流星さん)の活躍と、「耕書堂の日本橋進出」という今後の展開を左右する、非常に重要な決断を下すシーンが描かれました。日本橋への進出は、蔦重の本格始動への序幕。親なし、金なし、画才なし…という、ないない尽くしの生まれからスタートした蔦重も33歳に。心身共に充実し、青年期には見られなかった落ち着きと自信に溢れていますね!
ところで皆さんは、映画『国宝』はご覧になりましたか? 吉田修一さんの同名小説を原作に、任侠の世界から歌舞伎の世界に飛び込んだ立花喜久雄(吉沢亮さん)と、歌舞伎名門の御曹司である大垣俊介(横浜流星さん)の成長と葛藤、栄光と挫折が半世紀に渡って描かれた約3時間の大作ですが、おふたりの演技、とくに歌舞伎の舞台のシーンが鳥肌もののすばらしさ!と大きな話題になっていますよね。
流星さん推しの筆者は「お顔も国宝。うふふ」くらいの軽い気持ちで観に行って、全方位からたこ殴りにあったくらいの衝撃を受けて帰って参りました。出演者の方々の演技が素晴らしかったのはもちろん、作品としての完成度がすごかった。特に主演の吉沢亮さんと流星さんに関しては、はっきり言って化け物です。おふたりがこの映画のために歌舞伎のお稽古をされたのは約1年半だそうですが、才のある人間というのは、それほどの期間であんな領域に到達できるものなのか…と驚愕です。
『べらぼう』が始まった当初、流星さんの着物の着こなし、立ち居振舞の美しさに驚いたものでしたが、映画『国宝」を観た今ならば、その理由も納得です。そして第23回で、鍛錬の成果を端的に見て取れたのが、九郎助稲荷で宮沢氷魚さん演じる田沼意知と対峙する、冒頭シーンでした。蔦重の、番傘を持つ姿の艶やかなこと! 傘の柄を持つ手の位置、肘の角度…深く頭を垂れた際の体のライン…これこそ歌舞伎の芸を学んだ成果かと…お見事でした!

第22回のラストで、意知から「蝦夷地を天領とする計画に協力しないか」との誘いを受けた蔦重。第23回はそのリフレインから始まり、蔦重はきっぱりと断ります。そして話の内容から、誰袖花魁(福原遥さん)も抜荷についての計画に関わっていることを察します。そして、2代目大文字屋市兵衛(伊藤淳史さん)までもが、その画策に荷担ていると知ります。「ちょいと『ぬクけケにキ』のからくりを考えてみたんだがの」などと言う市兵衛は、蔦重が危険だと忠告しても「どんだけうまい話だと思ってるんだよ!」と耳を貸しません。金儲けに目がくらみ、殺気立った姿はまるで初代が憑依したかのよう…ちょっと心配になりますね。

【好景気に沸くお江戸。蔦重の評判もピークに】
第23回の舞台は1783(天明3)年。天明狂歌のスターといわれた大田南畝(狂名:四方赤良/桐谷健太さん)が大ブレイクを果たします。蔦重が手掛けた狂歌の指南書『浜のきさご』も飛ぶように売れ、ほかの青本の評判ともあいまって、耕書堂は江戸で大注目の本屋に。それに伴い、店主の蔦重自身も江戸一の目利き、「利き者」と呼ばれるようになったのです。「利き者」とは、羽振りがよく、人気のある人のこと。今風にいえば、蔦重はセレブの仲間入りをしたってことでしょうか。連日連夜、接待に打ち合わせ、宴会と、引っ張りだこの忙しさです。
蔦重を筆頭に、彼を取り巻く人々の浮かれっぷりは、昭和末期から平成時代に日本中を沸かせたバブル景気を連想させます。このとき江戸は、260年に及ぶ江戸時代のなかでも、最も景気のよい時代を迎えていました。政治的実権を握っていた老中・田沼意次(渡辺謙さん)は要職を身内で固めて権勢を誇り、勘定組頭の土山宗次郎(軽少ならん/栁俊太郎さん)も、役職にそぐわないほどの財を得て、南畝と共に豪勢な狂歌の会をたびたび催しています。
この景気にあやかりたい下級武士たちは、狂歌の会に参加して土山にコネをつくろうと躍起に。大河ドラマ『べらぼう』の前半で、女好きのイタいチャラ男として登場、花街では「カモ平」と揶揄されていた「未来の鬼平」も再登場です。心なしか少々貫禄が出たようですが、「シケ(鬢がほつれてパラリと垂れた髪)」を揺らしての粋がりようは健在。蔦重の取り次ぎで土山たち話す機会を得たうえに、「稀代のモテ男、在原業平にちなんで、“ありがねのなきひら”」と、狂名まで賜りご満悦です。
一方で、江戸城の番士(将軍警護にあたる武士)佐野政言(矢本悠馬さん)は、会話に入りそびれてがっかりした様子で帰っていってしまいます。皆さん、このくだり、覚えておいてくださいね。

【お江戸の女子を夢中にさせた「江戸の三男(さんおとこ)」】
「まるでバブル」な江戸の好景気を描いたシーンといえば、今回の宴席のシーン。蔦重を囲む関取役として、現役幕内力士である若元春関、遠藤関、錦木関が出演されていました。
達者な台詞回しを披露したのは遠藤関。永谷園「お茶づけ海苔」のCMに10年以上も出演されているだけあって、演技に余裕が感じられました。
そうそう、遠藤関が「俺も買ったよ」と懐から出したのは、四方赤良(大田南畝)が書き、北尾政美(高島豪志さん)が挿絵を付けた青本『壽鹽商婚禮(ことぶきしおあきないこんれい)』。耕書堂が出したヒット作のひとつです。この本の中にも、今や「江戸一の利き者」となった蔦重自らが登場し、さり気なく商品のプロモーションを行っていました。
■勧進相撲の「勧進」って何?
実は相撲のルーツは非常に古く、『古事記』には、建御名方神(たけみなかたのかみ)と建御雷神(たけみかずちのかみ)が、出雲国をかけた力比べをしたと記録されています。現在の大相撲の直接のルーツとなるのは、江戸時代の「勧進相撲(かんじんずもう)」です。江戸初期の1624年、四谷塩町(※現在の本塩町)の笹寺で興行したのが始まりといわれています。「勧進」とは、人々に仏の道を説いて勧めること。転じて、 堂塔・仏像などの建立・修理のため、人々に勧めて寄付を募ることを意味するようになりました。
歌舞伎の時代物として知られる「勧進帳」は、東大寺勧進の山伏に身をやつした源義経に従う弁慶が、白紙の巻物を勧進帳に見立てて読み上げる場面から始まります。そして「勧進相撲」は寺社の修繕費用や寄付を募るという名目で、入場料をとって見せた相撲のこと。当時の相撲は荒っぽく、乱闘騒ぎが多かったため。興業を認めない幕府を説得するため、興行主が考え出したのが、「勧進相撲」というスタイルだったのです。
天明年間(1781〜89年)には、今の相撲協会にあたる「相撲会所」が組織され、年に2回の興業が定例化。続く寛政期(1789〜1801年)には、相撲人気はピークを迎え、歌舞伎・吉原と並ぶ「江戸の三大娯楽」のひとつとなりました。
大河ドラマ『べらぼう』第23回の舞台は1783(天明3)年ですから、まさに相撲人気が急激に高まっていくさなか。トレンドに敏感な蔦重はこの流れをいち早くキャッチし、力士との人脈を構築していたのでしょう。こののち、蔦重は力士の勇姿を描いた「相撲絵」にも進出し、やがて相撲絵は浮世絵の大ジャンルに成長していくのです。
当時、力士・与力※・火消しの頭(かしら)が「江戸の三男(さんおとこ)」といわれ、女性にモテました。今では、関取といえば「大銀杏」という髷を結うのが決まりですが、昔は皆、てんでばらばらに似合う髷を工夫して結い、お客の目を楽しませていたそうです。
番付の最高位は「大関」で、「横綱」は地位ではなく、将軍拝謁用に考案された力士の正装を意味していました。元禄に活躍した大関・両國梶之助(1664~1708) は大変な美男子で、土俵に上がる際は白粉を塗って、艶やかに結った前髪立に二枚櫛(にまいぐし)を挿していたといわれています。実際にはまるで白粉を塗ったように色白だったというのが有力な説なのですが、現代にたとえると、アイドルか俳優か…いずれにしてもかなりの人気商売だったのですね。
ちなみに、相撲は当時はまだ「国技」ではありませんでした。相撲を「国技」と見る人が出てきたのは1909(明治42)年以降のことです。確定的となったきっかけは、この年、東京に「国技館」ができ、相撲専用の建物の名前を決めることになったとき。「常設館」や「相撲館」などの候補もでましたが、最終的には開館挨拶文の中にあった「そもそも相撲は日本の国技なり」という言葉から、「国技館」という名前に決まったのです。そしてこの「国技館」という名前が知られるようになるにつれ、相撲を日本の国技と考える人も増えてきた、という経緯です。
【「階段落ち」ならぬ「階段のぼり」に蔦重の「巣立ち」を見た!】
さて。蔦重は日本橋の呉服屋の重鎮たちから、駿河屋に呼び出されます。西村屋の錦絵『雛形若菜初模様』がもっと売れるように、吉原を挙げて協力してほしいというのです。
自分自身も花魁の錦絵を売っている蔦重には納得しがたいことでしたが、耕書堂の本は江戸の外ではほとんど売られていないのに対して、西村屋や鶴屋の出す本は、諸国の本屋から大口の買い付けがあるのです。同じ内容の本なら、より宣伝効果の高い本の売り上げに注力したいというのはビジネスとしては当然のことといえましょう。
それに腹を立てて「あっという間に日の本中で自分の本を売ってみせる」と啖呵を切った蔦重ですが、日本橋に店を構える本屋との販売力の差は歴然としたもの。何か名案はないかと市兵衛(里見浩太朗さん)に相談します。そこで蔦重に日本橋への出店を強く勧められます。
当時の日本橋は物流や交通、商業、文化の中心地。現在の銀座や新宿、渋谷以上の賑わいを誇っていました。多額の借金があるからと出店を渋る蔦重に、市兵衛は耕書堂の名付け親であり、蔦重が敬愛していた平賀源内(安田顕さん)の名前を出し「お前さんは今、江戸でいちばんおもしろいものをつくってるんだ。そいつをこの日の本の津々浦々まで流すことは、この日の本の人々の心を豊かにすることじゃねえのか? 耕書堂って名には、そういう願いが込められてたんじゃなかったかい?」と説くのでした。このお方もやり手ですな。人を動かす説得力があります。
「任せたよ、蔦の重三」…瀬川花魁(小芝風花さん)の声も蔦重の頭をよぎります。歌麿(染谷将太さん)も、「どう転んでも俺だけは隣にいるからさ」…と声をかけます。
意を決した蔦重は、駿河屋に集まった吉原の親父たちに、日本橋に出店したいと頭を下げます。恩知らずだと激高する駿河屋の親父様(高橋克実さん)に殴られ、階段から突き落とされても、いつもは黙って引き下がっていた蔦重が、今回ばかりは黙りません。
「おいらも忘八だ」と前置きをしたうえで、階段を一段一段のぼりながら、耕書堂が日本橋へ進出する意味を力説します。「江戸の外れの吉原者が、日本橋の真ん真ん中で店を張る。そこで商いを切り回せば、誰からも蔑まれたりなんかしねぇ」「俺が成り上がりゃあ、生まれや育ちなんか人の値打ちとはかかわりのねえ、屁みてえなもんだってことの証しになる。それがこの街に育ててもらった拾い子の、一等でけぇ恩返しになりゃしませんか」。階段をのぼり切った蔦重の目線は、とうとう親父さまと同じ高さに。打って出ることの「勝ち目」を問うりつに、蔦重は歌麿や朋誠堂喜三二(尾美としのりさん)、恋川春町(岡山天音さん)などの名前を挙げ、「俺の抱えは日の本一に決まっている! 俺に足んねぇのは日本橋だけなんでさぁ」と、深々と頭を下げたのでした。
蔦重を見つめる忘八たちは、まるで巣立ちを迎えた息子を見送るような、心配そうで、でもどこか誇らしげな眼差しです。そんななかひとり、駿河屋の親父さまの寂しそうなお顔が印象的でした。だって蔦重は、本音では手放したくない自慢の息子。親父さまにとってはうれしくもつらい「子離れ」のときなのかもしれません。
「吉原への恩返し」を胸に、大きな一歩を踏み出す蔦重。今後は日本橋でどんな活躍を見せてくれるのでしょうか?
さてさて、ドラマの最後では、 土山宗次郎(軽少ならん/栁俊太郎さん)の狂歌の会で浮きまくっていた陰キャ設定の佐野政言が、老いた父親の世話をする様子が描かれていました。政言はヤングケアラーでもあったのですね…。かつて、「よい役職が欲しい」と田沼屋敷を訪ねた政言は、意知に家系図を託すも、機嫌の悪かった意次はその家系図を見ることもなく庭の池へ放り込んでしまいました。政言の生来の性格に加え、介護のストレス、そして経済的な窮状…この流れ、闇落ちのフラグでしょうか…。
そしてこちらはナイスなタイミング! 日本橋の本屋・丸屋が売りに出るという知らせが蔦重のもとに入ります。しかしその女主人(橋本愛さん)は「吉原、蔦屋耕書堂だけには1万両積まれても売らない」と。そこに「お待ち丼(どんぶり)二人連れ」と見知らぬ男と一緒にイケオジ扇屋(山路和弘さん)が登場。蔦重が「どなたで?」と尋ねると「俺たちの奥の手ってことさ」と答えます。さて、この人物は一体…? オープニングに名前があったかどうか、NHKプラスで確認みましょうか。
【次回 『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第24回「げにつれなきは日本橋」のあらすじ】
吉原の親父たちの支援のもと、日本橋に店を購入する準備を始める蔦重(横浜流星さん)。しかし、丸屋のてい(橋本愛さん)は、吉原者の蔦重を受け入れず、店の売却を拒否する。蔦重は、東作(木村了さん)や重政(橋本淳さん)に何か打開策はないかとたずねるが…。
一方、誰袖(福原遥さん)は抜荷の証を掴めていなかった。意知(宮沢氷魚さん)は、次の一手に東作と廣年(ひょうろくさん)を繋ぎ、琥珀の直取引話で誘いを謀る…。
※『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第23回「我こそは江戸一利者なり」のNHKプラス配信期間は2025年6月22日(日)午後8:44までです。
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- Precious編集部
- 参考資料:『NHK大河ドラマ・ガイド べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~ 後編』(NHK出版)/『世界大百科事典』(平凡社) /『見てきたようによくわかる 蔦屋重三郎と江戸の風俗』(青春文庫) /『江戸の色町 遊女と吉原の歴史』(KANZEN) /『お江戸でござる』(新潮文庫) /『一日江戸人』(新潮文庫) :