【目次】
【前回のあらすじ】
第24回放送の「げにつれなきは日本橋」では、蔦重(横浜流星さん)の日本橋進出と、田沼意知(宮沢氷魚さん)の蝦夷地天領計画の2本立てで物語は進みました。
ところで…意知を射止めたいという恋心(下心?)から、気弱な松前廣年(ひょうろくさん)をそそのかす誰袖花魁(福原遥さん)の策士ぶりといったら! どこまでも気風のいい瀬川花魁(小芝風花さん)はめちゃくちゃかっこいい女性でしたが、誰袖花魁も回を重ねるごとにどんどん魅力的なキャラクターに…と感じているのは筆者だけではないでしょう。
そして驚くべきは意知です。「あなたに身請けしてもらうために松前藩主の弟である廣年を色仕掛けでだます」と積極的行動に出ている誰袖花魁と、まだ男女の仲ではないなんて! ジリジリさせますね~、こちらもそろそろ進展してもしいものです。
第23回「我こそは江戸一利者なり」で蔦重の熱意にほだされたのでしょうか。蔦重の日本橋進出は「吉原もんが天下の日本橋で名を上げれば、吉原の評判も上がって客入りも見込めるってものよ」とばかりに、吉原の親父連中も本腰を入れ始めます。そして吉原にツケが溜まっている茶問屋「亀屋」の若旦那に、売りに出されている日本橋通油町の書物問屋「丸屋」を買い取らせ、そののち蔦重に貸せばツケは帳消し、という策をもちかけます。

当時、吉原の人間は江戸の見附内(江戸城外堀の内側エリア)に家屋敷を買えないという決まりがあったため、蔦重は商いをするための物件を日本橋で手に入れることができなかったのです。この策は見事失敗に終わりましたが、次なる手立てが…なんと「蔦重が丸屋の女将てい(橋本愛さん)をベタ惚れさせてしまえば店も手に入るじゃないか!」というもの。令和的には完全NGな策ですが、花魁といい忘八たちといい、「まぁそれもアリか」と思わせる風土が江戸時代にはあったのですね。そして、蔦重は、ていと接しているなかで、彼女の本懐と本屋としての志に惚れていくわけですが…。
吉原の「大文字屋」では、松前藩主の道廣(えなりかずきさん)が大文字屋2代目の市兵衛(伊藤淳史さん)に、オロシャ(ロシア)との琥珀の直取引をもち掛けます。それは意知と誰袖花魁の目論見通り…。しかし本当においしい展開なのか、危険な橋なのか…? 勢いに乗る田沼政権の中心で是が非でも成果を挙げたい意知に、思わず「慎重に、慎重に※」と声をかけたくなるのです。
【半年で10歳年を重ねて成長した蔦重のお仕事を復習】
大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺』が始まった当初、蔦重は育ての親である吉原の引手茶屋「駿河屋」の仕事と、女郎屋を回って女郎や禿に本を届ける貸本業に精を出していました。放送開始時の蔦重の年齢設定は23歳。そして日本橋に進出した天明3(1783)年は34歳です。放送半年で物語のうえでは10年の月日が流れたわけです。早いですね。いつがいつだったっけ?と混乱されてる方もいるかもしれません。ということで、これまでの蔦重の仕事を時系列で整理しておきましょう。(注:年齢と年号は史実に基づくものです。『べらぼう』の放送内容と合致しない場合があります)
・23歳/安永元(1772)年:吉原大門口の五十間道に、書店兼貸本屋の「耕書堂」を開く。
・25歳/安永3(1774)年:吉原細見の改訂版『細見嗚呼御江戸』に携わる。序文の執筆は平賀源内(安田顕さん)。初めて「蔦屋」の名前で遊女評判記『一目千本』を出版。
・26歳/安永4(1775)年:「蔦屋」初の吉原細見『籬(まかぎ)の花』を出版。
・28歳/安永6(1777)年:富本節の正本と稽古本の株(出版権)を取得。
・32歳/天明元(1781)年:朋誠堂喜三二(尾美としのりさん)の『見徳一炊夢』を出版、翌年の絵草紙評判記『菊寿草』で番頭の極上々吉に位付けされる。以降さまざまな草双紙を出版してヒットを飛ばし続け、「江戸一の利者」と評されるように。
・34歳/天明3(1783)年:日本橋油通町に「耕書堂」を出店。蔦重の独占販売となった吉原細見を継続するため、五十間道の店は残して手代に任す。
『べらぼう』の第5回放送で蔦重の元を去った唐丸(渡邉斗翔さん)は、3か月以上の時を経て第18回「歌麿よ、見徳は一炊夢」で捨吉(染谷将太さん)として登場し、蔦重に「歌麿」という名前をもらって再出発しました。出版人、メディアプロデューサーとしての今後の蔦重の活躍に不可欠な歌麿が、その才能をどのように開花させていくか楽しみですね。
【江戸時代の日本橋は経済と文化の中心地!】
天明3(1783)年、蔦屋重三郎は日本橋油通町(現在の日本橋大伝馬町)に新たな「耕書堂」を開店します。ドラマ『べらぼう』では売りに出されていた本屋「丸屋」をなんとか手に入れ、その女将てい(橋本愛さん)と…という展開ですが、この女性は創作。蔦重に妻がいたことは事実のようですが、それが誰だったのか、詳細は明らかではありません。ただ、日本橋に書店を所有する家の娘とひょんなことから交流が生まれ、最初は反発していたもののやがて恋仲になった、あるいは結婚したというストーリーは、吉原出身の蔦重が日本橋に進出できた理由として、納得しやすいですよね。

さて、蔦重が日本橋への進出を決めたのは、花魁の錦絵などを吉原の外でも売れるようにして、江戸じゅう、国じゅうに販路と読者を広めたい、日の本一の本屋になるという平賀源内と交わした約束を果たしたいという思いからでした。
その思いを日本橋の書物問屋「須原屋」の主人(里見浩太朗さん)に相談すると、日本橋に店を持ってこそ一流、おのずと江戸の外へ品が流れていくとアドバイスされます。そして、吉原の外で不当な扱いを受けている忘八たちへの恩返しにも、自分が日本橋に進出して一流にならなければ、と…。当時、一流=日本橋進出だったのです。
■交通の要の町人街
そのころの日本橋は交通の要で、物資の集積地であると共にに全国に広がる街道の起点でもありました。現在でも日本の道路の起点とされ、日本橋の中央には日本国道路元標が設置されています。
「日本橋」は徳川家康が江戸幕府を開いた1603年に架けられた橋ですが、では、何という川に架かっているかご存知ですか? 正解は「日本橋川」です! 日本橋川に架けられた日本橋…卵が先かニワトリが先か、という感じですね。江戸時代は脆弱な木製の橋だったので、16~17回も架け替えられたのだとか。現在の石橋は、明治44(1911)年に建造されたルネサンス風の名橋。外国人観光客の撮影スポットにもなっています。
寛政12(1800)年ごろの江戸の人口は120万人に達し、面積・人口共にに世界最大規模の都市といわれています。同時期のパリの人口が約50万人、ロンドンは約90万人だったとか。この江戸の人口を支える物資の供給には大河川の存在が不可欠です。海からの水路を整備し、全国の物資が船で江戸市中に入るような街づくりが江戸幕府の開府と同時に展開されました。海に面した商業地には多数の運河や河岸(かし)がつくられ、日本橋川や京橋川、三十間堀、八丁堀の河岸は、「水運の大動脈」といわれる要路となったのです。
河岸周辺の魚市場では活発に取引が行われ、そのほかにも各種の問屋商店ができて賑わいました。やがて江戸を代表する町人街となっていったのです。
■金融と出版の中心地
日本橋は金貨の鋳造や鑑定、検印を行う「金座(きんざ)」も置かれ、金融の中心地でもありました。そして、『べらぼう』で蔦重にとって出版業の大先輩であり相談役の書物問屋・須原屋市兵衛、ライバルにして一流の地本問屋・鶴屋喜右衛門(風間俊介さん)も日本橋に店を構えていました。当時の日本橋は出版の中心地でもあり多くの書店や問屋が軒を連ねていましたが、流行の移り変わりが激しく、時流に乗り切れずに廃業を余儀なくされる店も少なくなかったようです。「丸屋」のていの元夫も、もうけを吉原遊びで使い果たして店を潰した輩、という設定です。
また日本橋は職人の町でもあり、文化と芸能の町でもありました。そのあたりは…いずれご紹介しましょう。
さぁ、次週いよいよ日本橋へ進出する蔦重。新たな店と相方を得て、ドラマは後半戦に突入します!
【次回 『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第25回 「灰の雨降る日本橋」のあらすじ】
柏原屋から丸屋を買い取った蔦重(横浜流星さん)は、須原屋(里見浩太朗さん)の持つ「抜荷の絵図」と交換条件で意知(宮沢氷魚さん)から日本橋出店への協力を取り付ける。そんななか、浅間山の大噴火で江戸にも灰が降り注ぐ。蔦重は通油町の灰除去のため懸命に働く。その姿に、門前払いしていたてい(橋本愛さん)の心が揺れる。一方、意知は誰袖(福原遥さん)に心惹かれ始める。松前廣年(ひょうろくさん)は抜荷の件で大文字屋(伊藤淳史)を訪ねる…。
※『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第24回「げにつれなきは日本橋」のNHKプラス配信期間は2025年6月29日(日)午後8:44までです。
- TEXT :
- Precious編集部
- WRITING :
- 小竹智子
- 参考資料:『NHK大河ドラマ・ガイド べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~ 後編』(NHK出版)/『大河ドラマ べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~ 蔦屋重三郎とその時代』(宝島社)/鈴木俊幸著『蔦屋重三郎』(平凡社新書)/『初めての大河ドラマ べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~歴史おもしろBOOK』小学館)/田中優子著『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』(文藝春秋)/『デジタル大辞泉』(小学館) :