鈴木保奈美さんの連載「Carnet de petite voyageuse 中途半端な旅人は語る」第十五回
俳優・鈴木保奈美さんの大好評連載「Carnet de petite voyageuse 中途半端な旅人は語る」では、保奈美さんの趣味のひとつである旅をテーマに、これまで経験してきた旅路を振り返ります。
第十五回となる今回は、【空中散歩】と題してお送りします。今回も保奈美さん自ら撮影したフォトも大公開します。
第十五回「空中散歩」 文・鈴木保奈美
「マダムが今、読んでいらっしゃる本は、もしかすると日本語ですか?」と話しかけてきたのは、中東系に見える男性クルーだった。ヨーロッパのどこかへ向かう乗り継ぎ便で、周囲にわたし以外に日本人客の姿は見えない。
「あら、日本語、わかるんですか?」
「いえ、その…文字が、縦書きなので」
そこに着眼するとは。相当な読書好き、そして異文化探求好きとお見受けした。
「世界には縦書きと横書きの言語があって、主に中国由来の、漢字を使う国は、縦書きが多かったのだけど、そういう国もどんどん横書きを使うようになってきて…今現在、新聞や本で縦書きを用いているのは日本語だけ、らしいですよ」
オンリージャパニーズ、インザホールワールド、って言うとき、なんだか誇らしかった。ちょうどこの旅に出る直前、とある文章を書くために、世界の縦書きと横書きについて調べていたのだ。良いタイミングで蘊蓄をご披露できたなあ。
「おお、実に興味深い。右から左へ読んでいくのですね」
「よかったら、本、見てみます?」
手渡した本を不思議そうに眺め回してから返してくれた彼は、
「日本語を学んでみたくなりました。ありがとうマダム、良い旅を」
と微笑んだ。こんなやりとりができるなんて、あたし、旅の達人ぽいじゃない、ぐっふっふ。と、ニヤつきながら読書に戻る。

移動時間は読書に最適だ。新幹線でも飛行機でも、スケジュールが決まると、何を読もうかと考えるのが楽しい。たいていは行き先に合わせて選ぶ。米東海岸ならサリンジャーやポール・オースター、ロンドンならシャーロック・ホームズ、パリならボリス・ヴィアン、て具合だけど、東南アジアへ向かうとき沢木耕太郎を選んでしまい、ハマり過ぎてちょっと怖かった、なんてことも。以来、内容には気をつけている。だけど活字を追うよりも何よりも、ウェルカムシャンパンより機内映画よりも楽しみにしていることがある。ゴシック体で発表しましょう、それは「窓の外を見ること」なのである。
リアルな世界地図を、ナマ地球儀を、衛星やドローンの画像ではなく、ガラス越しとはいえ自分の眼で見ることができる、これ以上のエンターテイメントがあるだろうか? わたしはこの至福を堪能するために、必ず窓側の座席を予約する。このとき、翼の真上にならないように要注意。それから左右どちらの窓側を選ぶかも重要だ。例えば羽田空港から北海道新千歳へ向かう場合、右側に座るとずっと太平洋しか見えない。逆に羽田から福岡へ向かうなら、左側だとやはり海しか見えない時間が長くなる。もちろん天候も大事。どんよりとした天気や雨はできれば避けたい。飛行機が揺れるからではなくて、雲に遮られて地面が見えないから。そうして個人用画面に飛行ルートを呼び出したら、現在地と照らし合わせながら、窓ガラスに額を付けてひたすらに眼下の景色を追い続ける。
現在は飛べなくなってしまったロシア上空からの眺め。ツンドラって、本当に暗く黒い凍土地帯なんだ。そしてあまりにも広い。そこに忽然と、ビュンと人工的な直線が現れる。道路だろうか? これだけ広大な土地にインフラを整備するって、そりゃあ強引な政府が必要だろうな。大陸を抜けて、バルト海。スウェーデン沿岸には夥しい島の群れ。一つ一つに名前はあるのだろうか? 全部覚えていないと政治家は選挙に勝てなかったりするかしら? スウェーデンの子供たちの地理の授業は大変だなあ。あるいは、ヨーロッパから日本に戻るナイトフライト。大陸を東へ行くほどに倍速で夜が更けて、眼下は真っ暗闇だ。と、突然、超新星みたいに煌々と輝く都市が出現する。大急ぎで時間と地図を確認すれば、どうやらアゼルバイジャンのバクー、現地時間は午前二時だ。オイルマネーで潤う第二のドバイ、真夜中にああも騒がしく光っているとは、どうやらイケイケだなあ。
シドニーから東京へはずっと晴天で、完璧な大陸縦断だった。正方形の農場がどこまでも並ぶ。一つの区画が、とてつもなく大きい。ここで働く人々は区画の外から通っているのだろうか、お弁当なんか持って? それは、どんな一日だろう? やがて砂漠。それから海を渡るとインドネシアの熱帯雨林。あのジャングルの中に、武装勢力が潜んでいるのかもしれない。何千メートルも真上から覗き込んでいるわたしのことなんかお構いなしで。あるいは木陰で愛を交わしているかも、それともたった今、赤子が生まれているかも? 地図の通りに地球がある面白さと地図に描かれない人の営みを想像して、とっくに首は痺れているのに目が離せない。
ニューヨークから東京へ戻るときは、かなりの時間、カナダ上空を飛ぶ。不思議な国だなあ、と思う。あんなに大きな国が、ほぼ丸ごと北海道より高い緯度にある。しかも、相当な範囲に、人の住む気配がない。飛行マップを確認すると、イヌイットの言葉だろうか、聞き慣れない地名が点在しているけれど、とても街があるようには見えない。どんな暮らしが営まれて、どんな物語が生まれているのだろう。決して出会うことのできない人々、降り立つことのない街。それから、国境を越えてアラスカに入る。ゴツゴツした白とグレーの連なり。透き通った青い塊は、氷河だろうか?
一度も人間の足跡がついたことのない雪原がどこまでもどこまでも続く。わたしの、真下に。時空が歪むような気がして、なぜだか切なくもなる。
「もうすぐ右側に、マッキンリー山が見えますよ。よろしかったら通路のほうにいらっしゃいませんか。少し大きな窓からご覧いただけますよ」
肩越しに柔らかい声が聞こえた。どうやら、あまりにも窓に張り付いていたせいで、アラスカにものすごく思い入れがあるように見えたらしい。ありがたく席を立ってついていくと、ギャレーの近くの広いスペースに案内された。ここなら確かに、“少し大きな窓”を独り占めだ。ガラスに両手をついて、わあ、と小さく歓声をあげる。子供か。だってだって、今この瞬間この角度から、六千メートル峰を眺めている人間が他にいるかしら?
「こんなにくっきりと見えるの、珍しいんです。ラッキーですね」とのこと、丁重にお礼を言って、自分の席へ戻る。外は雲が出てきた。この先は、ベーリング海。あきらめてひと眠りしようか。目覚める頃には懐かしいサイズの家並が迫っているはず。やがて海ほたるの明かりが見えてくるだろう。海中からゴジラが跳び出してくるかも、なんておかしな妄想をしながら、わたしは再び窓の外に目を凝らすだろう。
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- PHOTO :
- 鈴木保奈美(本人の写真は、スタッフ、友人、家族が撮影)
- EDIT :
- 喜多容子(Precious)

















