鈴木保奈美さんの連載「Carnet de petite voyageuse 中途半端な旅人は語る」第十三回
俳優・鈴木保奈美さんの大好評連載「Carnet de petite voyageuse 中途半端な旅人は語る」では、保奈美さんの趣味のひとつである旅をテーマに、これまで経験してきた旅路を振り返ります。
第十三回となる今回は【ふつう、上等。〜利尻島編】と題した、利尻島への旅のお話しをお送りします。今回も保奈美さん自ら撮影したフォトも大公開です。
第十三回「ふつう、上等。〜利尻島編」 文・鈴木保奈美

搭乗予定時刻が迫っていた。搭乗ゲート、というよりどう見ても「待合室」のベンチに、乗客たちは黙りこくって座っている。眼の前のガラス越しに広がる滑走路に、機影はない。大型のテレビモニターでは午後のワイドショーの出演者が、どこかのご当地プリンを大袈裟な笑顔で試食していて、画面から少し目線を上げた先の発着を示す電光掲示板には「遅延」の文字。
わたしは何度目かのため息を小さくついて、手元の『ババヤガの夜』の文庫本に意識を戻す。主人公の「喧嘩が強い大きな女」の姿をなかなかイメージできない。レスリングの五輪選手のような感じだろうか? でも彼女たちは競技を離れると案外乙女のように見える。この主人公はもっとワイルドで、この先どこへ行くのか見当もつかない。
とっくに到着しているはずの、そして入れ替わりにとっくにわたしたちを乗せているはずのプロペラ機は「視界不良のため上空を旋回して」いるらしい。さっきから、二十分以上も。雨は降っていないし風もない。が、確かにもったりとした曇り空だ。乗っている人たち、不安だろうな。気分が悪くなっている人もいるかもしれないな。笑顔を保って対応している乗務員も辛いであろう。ぐるぐると旋回した挙句、諦めて札幌に帰ります、とアナウンスされる機内を想像すると、もう気の毒でならない。そしてこの待合室の落胆も。

昼前に礼文島からのフェリーで利尻島・鴛泊(おしどまり)港に戻ってきて、四時間だけ車を借りようとしたわたしたちに、レンタカー屋のものすごく感じの良い女性が告げた。「空港で返却ですね? 雲が厚くて、今朝から二便、降りられなくて引き返しちゃったんですよ。午後もダメだったら、この車延長できますからね、電話してくださいね〜」へ? つまり、札幌からの飛行機が降りられないと、その帰り道に利尻空港から客を乗せる機体が、ない。どうしても帰りたいならフェリーで稚内へ行って、そこから札幌へ飛ぶ。ひええ、と驚くわたしたちに、レンタカーねえさんはケロケロと明るい。離島に暮らすって、こういうことなんだ、と思う。
白状しよう。三日前、利尻空港で車を借りて、走り出してすぐ、わたしは「あちゃ〜」と思った。何も、ない。いや、あるけど、ふつう。秘境感、ないじゃん? 友人の誘いにのって、ちょうど仕事が一件延期になったこともあり、夏休みのつもりでやってきたこの離島を、楽しめるのか? しかし利尻岳の麓のハイキングコースを歩き始めてすぐに、自分が都会のチャラついた観光マインドでいたことを恥じた。ただただ、豊かだった。樹々が。草花が。蝶が。虫が。



北海道の夏は短いから、全ての生き物がこの数週間に一年分の活動をしようと全力を注ぐ。そのエネルギーたるや。もちろん、素人の観光客が歩くために、森は絶妙に整備されている。山頂から下ってくる人たちはみな、全身ノースフェイスやスノーピークの「マジ登山仕様」で、麻のシャツに普段のスニーカーという自分の軽装が情けない。
本当の手付かずの自然なんて、ない。もしそうだったら自分なんか足を踏み入れることはできない。いったいどんな秘境を期待していたのだか。ふつうの自然、だけで、もう圧倒的に豊かなんだ。その豊かさを、島にふつうに暮らすふつうの人たちが支えているんだ、と思った。ふつう、上等。


昆布工場に併設された売店で、おじさんが「試食、どうぞ〜」と、とろろ昆布を一掴みもくれる。友人は何ヶ月も前から、「ひらめの昆布締めは利尻産昆布じゃなきゃダメなのよ! 一年分買って帰るわ!」と言い張っていて、おじさんと昆布談義に花を咲かせる。宿の女将さんは「若い頃島に仕事しにきて、そのまま昆布みたいに収穫されちゃったわね〜」とケラケラ笑う。


その食堂ではインドネシアから来たという青年たちが働いている。お造りの魚の種類を尋ねたら、「はい、あの、ちょっと、おまちください、きいてきます」と生真面目に厨房にすっ飛んでいく。日本で働こうと思っていたらこの島まで来ることになった彼ら、どんな感想を持っているだろう。楽しく過ごしてくれるといい。良い思い出を持って帰ってくれるといい。

ここ数日の記憶を反芻しているうち、いつの間にかかすかに空が明るくなって、ガラスの向こうにプロペラ機が滑り込んできた。待合室の客たちが思わず拍手する。うん、きっと今、機内でも拍手が起きてるね。ああ、これで予定通り帰れる。心底、ほっとして隣に座る友人とはしゃいでしまう。「空もわたしたちの味方よね」「機長の腕がすごいんじゃない?」「どっちにしろ、持ってる、わたしたち」
通常より笑顔度高めの満席の客を乗せて、プロペラ機は離陸した。再び厚くなってきた雲の層を抜けると、雲海にくっきりと利尻岳の頭が浮かんでいた。夕日に輝く利尻富士を見ながら、あれ? どうしてさっき、あんなにほっとしたんだろう? と思った。札幌に着いたらまたレンタカーで移動して、わたしの夏休みはあと二日続く。どうしても、今日中に帰京しなきゃならないわけじゃない。

午前の便が欠航したということは、島に来ることを諦めた人もいるはずで、宿に空きがないはずもない。飛ばないなら飛ばないで、おまけの一晩を面白がって楽しんじゃえばいい。アクシデントを楽しむ。予定不調和を楽しむ。それが旅の醍醐味じゃない? なんて口では言っているくせに、待合室のわたしはほんとうにうんざりして、困ったな、頼むから乗せてくれよおお、と願っていた。
予定が変わるなんてイヤだった。だけど、島に暮らす人々には、こんなことは日常茶飯事だ。天気が悪けりゃ飛行機は来ない。海が荒れれば船は着かない。漁もできないし山にも登れない。以上。大自然にあれこれ指図しようったって無理なのだ。だから受け入れる。それが、ここのふつう。なのにジタバタするなんて、ほんとに修行が足りない。
まったく、だからいつまでも中途半端な旅人なのだよ。と、オレンジ色に光る利尻富士に笑われた気がした。
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- PHOTO :
- 鈴木保奈美(本人の写真は、スタッフ、友人、家族が撮影)
- EDIT :
- 喜多容子(Precious)
- 撮影協力 :
- ライカカメラジャパン