西城秀樹の死去が発表されて数日間、昼夜問わずTVには懐かしい映像が溢れた。ヴィレッジ・ピープルのカバーでもあるおなじみの「YOUNG MAN Y.M.C.A.」をはじめ、「傷だらけのローラ」「ブーメランストリート」「ギャランドゥ」など、長身の体躯を活かしたアクションとヴィブラートが野性味たっぷりの歌声は、いま聞くとなるほど、ロバート・プラント(レッド・ツェッペリン)やデヴィッド・カヴァデール(ディープ・パープル、ホワイトスネイク)あたりを連想させるところもある(なんて書くと、伊藤政則派の人々からツッコミが来そうだが)。もともとジャニスやストーンズを聴き、デビュー前はドラマーとしてバンド活動もしていたそうだから、ロックフレーバー溢れるヴォーカルは西城にとっては自然なことだったのかもしれない。
西城がヒットを連発していた1970年代末から’80年代初頭、少年だった自分としては、年上の従姉妹がタイガース時代から熱狂していた沢田研二のほうが圧倒的に好みだったが、それでも毎シングル多彩な展開を見せる西城のことが気になっていた。スティーヴィー・ワンダーのカバーである「愛の園」(いま調べてみて、音づくりがYMOの坂本&松武コンビなのには驚いた)、オフコースのカバー「眠れぬ夜」、ワム!の「ケアレス・ウィスパー」に日本語歌詞を乗せた「抱きしめてジルバ」等々、その楽曲の幅広さは子どもの目(耳?)から見ても驚くべきものだった。なかにし礼からハワード・ヒューイット(シャラマー)まで、歴代シングルの楽曲提供者はまさに多士済々だ。
「西城秀樹」を前面に打ち出さない意欲作
そして、おそらく西城自身にとっても大きなチャレンジだったと思われるのが、当時杏里の「悲しみがとまらない」のプロデュースを手がけ、注目を集めていた角松敏生をソングライター&アレンジャーに迎えて録音された1985年のアルバム『TWILIGHT MADE…HIDEKI』だろう。前作のオリジナルアルバム『GENTLE・A MAN』で角松が作詞・作曲・編曲を担当した「Through The Night」を気に入った西城が、アイドル(シングル)スターからアーティスト路線に舵を切ろうとして角松を起用したのだった。当時、西城秀樹は30歳だった。
ジャケットのアートワークは、角松や杏里、また彼らの先達である山下達郎や大瀧詠一、佐藤博のような、昨今話題となっている「シティ・ポップ」のマナーで、つくり手が前面に出ないようなスタイルになっている(イラストのテイストに時代を感じさせるが)。サウンド面では角松の起用のほか、吉田美奈子が作詞やコーラスで参加していることも大きな特徴だ。吉田の起用は西城の意向というが、当時山下達郎を強く意識していたであろう角松がそれを喜ばなかったはずはない。
実はこの『TWILIGHT MADE…HIDEKI』の存在は、西城の訃報が届く1〜2年程度前に知った。YouTubeなどで、主に海外の人間によって紹介される日本のシティ・ポップの中に、『TWILIGHT MADE…HIDEKI』に収録されている曲が含まれていたのだった。BGMとしてYouTube流しっぱなしの耳に、シティ・ポップまわりでは馴染みの角松らしいきらびやかなサウンドが響く、と、どこかねっとりとした、ソウルフルなヴォーカルが始まり、思わずクレジットを確認したのだった。西城の声は、角松自身の少し硬質なヴォーカル以上に、角松サウンドが持つ「黒っぽさ(ファンクネス)」を引き出しているようにも思える。角松の音楽に重用されていた青木智仁のベースも西城の声との相性が実にいい。
ちょっと脇道に逸れるが、この「日本人以外が感応する日本のシティ・ポップ」に、個人的な関心がある。YouTube上のアカウントでその人の国籍を判別できるわけではないが、それでもコメントなどには「日本人ではない」感が漂うものも多く見受けられる。日本国内ではクニモンド瀧口さんらの尽力(?)もあって、若い世代によるシティ・ポップの掘りおこしが盛んなようだが、海外目線のチョイスのほうが、いわゆる「文脈」を顧慮しないだけ、よりダイナミックに映る。やはりその時代の音楽をリアルタイムで聴いた人間としては、はっぴいえんど周りやタツロー周辺、またはフュージョン関係をつい重視してしまいがちだからだ。
例えば年寄りの日本人目線だと角松敏生や杏里はやっぱり「タツロー後」「ユーミン後」の人たちだし、八神純子とか大橋純子はなんだかザ・ベストテン的な芸能の匂いがする。菊池桃子(RA MU)とか石川秀美なんてアイドルじゃん……でもこれらも海外の人にとっては、今聴くと面白い、またはDJ目線で「イケてる」日本のシティ・ポップの範疇なのだった。
そうしたシティ・ポップを「通聴」していて、当初は懐かしさを覚えていたものの、聞き覚えのない曲も数多く登場するなかで、次第に、別の次元に入り込んでしまったような、不思議な感覚を味わっていた。サウンドなどは明らかに過去自分がよく耳にしたポップスの感じ、でも初めて耳にする曲。そして'90年代、'00年代、'10年代と各時代の洋邦ポップスに親しんだ耳にとって、それらシティ・ポップの一群はどこか独特の感触がある。口当たり(耳あたり?)よく、軽くあっさりとしていながら、緻密でもあり、グルーヴィーというよりアキュレートなビート。そのアーティフィシャルな風合いは昨今のシンセポップなどの感覚にも近い。そしてそんなシティ・ポップが、現代のようにコンピュータの音源ではなく、技巧あるプレイヤーの演奏によって生み出されているところが、さらにその存在を独自のものとしている。もしかしたらそれは、現代ではもはやあり得ない一種の「贅沢さ」なのかもしれない。
先に名前が挙がった角松敏生が1987年にリリースしたアルバム『BEFORE THE DAYLIGHT』などは、そうした贅沢さの典型例といえるかもしれない。ニューヨーク録音、フィリップ・セスやレニー・ホワイトといったジャズ&フュージョン畑の人間をプロデューサーに迎え、ナイル・ロジャースやマイケル・ブレッカーといったプレイヤーが参加、さらには当時アンビシャス・ラヴァーズを組んでいたアート・リンゼイ&ピーター・シェラーが担当する曲もあるといった盛り込みようだ。そんな豪華なサウンドに角松の卑近といってもいいリリックが乗るアルバムの音世界と、本作の少し後に刊行された書籍『「NO」と言える日本』を、当時は重ねあわせて見ていた。それは日本全体が享受していた状況=バブルを象徴しているように感じられたのだ。
きっと西城の『TWILIGHT MADE…HIDEKI』も、それまで歌謡曲バブルを牽引してきた彼だからこそ至った地平なのだろう。そして’80年代のバブルからあまりに遠く離れた今だからこそ、冷静に、その音楽と向き合えるようにも感じる。吉田美奈子の詞と角松の曲、そして西城の歌唱が組み合わされた「BEET STREET」や「TELEVISION」を聴くと、どこか歌謡曲の香りを残しつつも、「その先にあるポップス」を目指すポジティブな姿勢を感じさせる。その漠然とした希望は、バブルの最中にあって、その後に訪れる長い不況や、相次ぐ震災もオウムも9.11も知らなかったからこそ、可能だったのかもしれないが。
- TEXT :
- 菅原幸裕 編集者