寺尾紗穂というアーティストと彼女の音楽は、気になっていたものの、なんとなく敬遠していた。そう、まさに字の通り「敬して遠ざけて」いたのだった。父親は元シュガーベイブで、映画の字幕を数多く手がけた寺尾次郎。そしてピアノ弾き語りで生み出される歌声は、若き日の大貫妙子を連想させる透明感(実はその音楽に触れる機会はこれまでなんどかあった)。そうしたことがらがあまりに自分の音楽遍歴と近しかったために、かえって「ハマるもんか」と天邪鬼になっていたところがあった。

 また、寺尾の歌声をいくつか聞いた後に、彼女の文章に触れたことも大きかったかもしれない。最初に読んだのは確か、寺尾の家の近辺にあった関東大震災時の朝鮮人虐殺を機に建立された碑(と地蔵)にまつわる小文だったと思う。彼女は郷土史の著者を探し当て、かつて行われた惨事について話を聞いた上で、自身のテキストを展開していた。そのしっかりと明快な姿勢に、目の覚めるような印象を持った。その後著作『原発労働者』を手に入れて読んだが、そこでも自身が目にし耳にしたことに真摯に向き合おうとする彼女の視点がはっきり感じられた。ただ、だからこそ、その歌声に親しむのに、どこか躊躇いも感じたのだった。文章を読むことと音楽を聴くこと、自分にとってそれらは別種の価値と考えている。そして、音楽ほどには歌詞は聴いていない。そんな自分に、あのような文章を書く彼女の音楽が味わえるのか、疑念があった。

楽器のアンサンブルが生むリラックス感

冬にわかれて『なんにもいらない』(Pヴァイン)

 そんな寺尾が、いわばメンバーとして参加しているバンド「冬にわかれて」のファーストアルバムがリリースされた。他のメンバーは、細野晴臣や星野源といったミュージシャンとの演奏で知られるベーシスト伊賀航、そして自身のバンド「あだち麗三郎とおいしい水」のほか先日本欄で紹介したceroら多数のミュージシャンとの共演やミキシングなどで活躍するサックス&ドラムスのあだち麗三郎。いずれも昨今の日本におけるポップミュージックの最前線でよく見かける名前だ。ちなみにバンド名は寺尾が好む尾崎翠の詩からつけられたものという。

 あだちは個人的によく聴いてきた音楽と比較的近いところにいる人だったし、伊賀の名前も気になる作品で見かけていた、だからこそまず聴いてみようと思ったのかもしれない。一聴して、そのリラックスした雰囲気に少し驚きつつ、やっぱり見込み通りだったかもと納得した。寺尾のソロ作に感じられた、真摯で、ナラティブな感触は、ここではそれほど強くはない。その一方で、楽器同士のアンサンブル感ががぜん際立っている。あだちと伊賀によるR&B的なリズムなどが随所に織り込まれ、それに呼応するように寺尾のピアノも軽快に弾ける。さらに楽器のインタープレイに、寺尾の歌声も巧みに絡んでいる。歌声がどこか楽器的に感じるのは、歌う言葉の選び方によるものかもしれない。

「冬にわかれて」のメンバー

「冬にわかれて」のメンバー。左からあだち麗三郎(ドラムス、サックス)、寺尾紗穂(ピアノ、ヴォーカル)、伊賀航(ベース)。

 アルバム中「なんにもいらない」が、いくらか影のある内容の歌詞というか、どきりとするような言葉を含んでいるが、それがリズミカルなベースやドラムス、ピアノ演奏と交わることで、どこかブラックユーモア的な色彩、かすかなコミカルさを感じさせるのが面白い。また、アルバム冒頭の曲「君の街」は伊賀の作というが、こうしたエレクトリックな要素を盛り込んだどこかシティ・ポップマナーな曲は、もしかしたら寺尾自身があえてやってこなかった方向性かもしれない。「なんだか」という歌う声の響きに、つい「きょうは、なんだか」と連想してしまう年寄りの邪推かもしれないが、ここでの彼女の歌声は、まさに作品のアペリティフとして、軽くポップで、だからこそ滋味深い。

 アルバムをなんどか聴き重ねるうち、ジョニ・ミッチェルの『夏草の誘い』や『ミンガス』を思い出した。ジョニといえば『ブルー』が名作、という人が多いかもしれない。確かに彼女の歩みを振り返る時『ブルー』はひとつの集大成といえる作品だし、強さもある。ただ、あの作品ではあまりに彼女が前面に出てしまっているがゆえに、向き合うことに相応の覚悟が求められる気がする。それは音楽を聴くというよりは、彼女を聴く、という感じだろうか。その一方で、ラリー・カールトンやジャコ・パストリアスといったフュージョン&ジャズ畑のプレイヤーが参加した『夏草の誘い』や『ミンガス』は、どこか空間があるというか、漂う音楽の中にジョニの存在感が立ち上るような印象だ。それと似たような感触が、この冬にわかれてのアルバムにも感じられたのだった。

 あと、本作での歌詞の世界は、ごく身近な感じの、人と人との関係を歌っているものが多く、選ばれた言葉は、すんなり耳に入ってくるものだった。彼女自身著作で、自らの文章と、自らが紡ぐ音楽とは直接的繋がりはない旨書いていたが、それはまた安直な関連を自戒しているということのように思える。そして、彼女の文章に深い感慨を抱いた一方で、彼女が関わる音楽を音楽そのものとして楽しめたということは、個人的にはとても重要なことと、感じている。

この記事の執筆者
『エスクァイア日本版』に約15年在籍し、現在は『男の靴雑誌LAST』編集の傍ら、『MEN'S Precious』他で編集者として活動。『エスクァイア日本版』では音楽担当を長年務め、現在もポップスからクラシック音楽まで幅広く渉猟する日々を送っている。