いま伊集院静は大ブレーク中の作家である。しかし約30年前は孤独で悲惨な日々を湘南のちいさなホテルで過ごしていたのだった――。
売れっ子作家を助けてくれた湘南での日々
トランク一個を引きずりながら、伊集院静はいままで暮らしていた妻子と離別して当てもなく、ひょっこり冬の逗子の海岸に現われた。こころは荒れ狂う冬の海のように渺々として、懐には少量の金しかなく、ぼろぼろの状態だった。莫大な慰謝料のため借りられるだけ借金して首も回らなくなり、住むところも定かではなく、定職もない流浪の旅人であった。
逗子なぎさホテルを舞台にした自伝的随想
「私は海岸へ上がり、‘STEPIN’と看板があったので、その庭へ入った。」小説家志望の若者は海風に吹かれながらビールを飲んだ。「――こんな場所で、こうして居られたらいいだろうな。私はビールを飲みながら呟いた。(中略)『昼間、海のそばで飲むビールは美味しいもんでしょう』」
この一言が、惨めな流浪の旅人を、いまをときめく人気作家にするきっかけになろうとは、だれが思ったろうか。そのとき伊集院に語りかけた人こそ、その後7年間暮らすことになる「逗子なぎさホテル」のI支配人だった。
才能ある者はいくらでもいるが、生まれついての強運の持ち主はそうざらにはいない。伊集院静はまさに強運の人であった。小説の神様に途方もない時間を与えられた伊集院はそこで小説の習作に励んだ。子供のころから瀬戸内海の海辺で育ったかれは、ことのほか海が好きだった。その海で以前高校2年生の弟が事故死している。あの暗い伊集院の死生観はそのころから根付いていた。
どうせ酒を飲んで失せる金なら、本でも読んでみようかと、鎌倉の古本屋に行って日本文学全集を買った。
「部屋に入ると、段ボール箱が積んであった。昼間、注文した文学全集だった。翌朝、フロントに降りて、I支配人に本の礼を言い、立て替え分の話をした。そこでまた呆然とした。本の値段を私は聞き間違えていた。預けておいた金の倍の額が必要だった。『すみません。すぐに払えないので待って貰えませんか』『ああ、かまいませんよ。それと、これ』とちいさなトレーに一万円札が載っていた。『はあ、何ですか?』『前払いなんか、必要ありません。金がある時に払って貰えればいいんです』(中略)I支配人が笑って言った。」
そこで生まれたのが伊集院の吉川英治文学賞に輝く傑作中の傑作、凄惨な死をテーマにした『ごろごろ』(講談社)だった。
人生最大の醍醐味は相性のいい人との偶然の出会いである。本書はそんな人生の真実を教えてくれる作者自らが綴った回想録である。
- TEXT :
- MEN'S Precious編集部
- BY :
- MEN'S Precious2011年秋号より
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- WRITING :
- 島地勝彦