日本人第一号のジェントルマンは誰なのか? その起源は福沢諭吉まで遡ぼれる。当時の知識人が渇望した「洋行」への志向。西洋の文物を貪欲に吸収して日本に帰ってきた紳士たちは、日本の文化や社会をさまざまにリードした。各時代に、独特の活躍をする洋行帰りのジェントルマンたち。その系譜をひもときながら「東京ジェントルマン」の始祖がもたらした価値について考察した。

 1921年3月3日、横浜港から当時皇太子であった裕仁親王(後の昭和天皇)は戦艦「香取」に乗船し、欧州歴訪の旅に出た。それは日本の皇太子として初めての外遊だった。反対運動も多々起こったが、結局決定は覆らなかった。いずれ国家を統べる存在が洋行し、見聞を広めることの必要性は、この洋行の立案者だった山県有朋ら元老に限らず、当時の多くの国民が理解し、認めていたのだった。

 洋行への志向を日本人に印象づけた先駆けは、『西洋事情』などの、福沢諭吉の一連の著作だろう。福沢が紹介する、進んだ西洋列強と、一方で遅れた国日本。洋行という言葉には、そうした西洋優位の考え方が色濃い。
 福沢が幕府の命で欧米を旅したのと同様に、明治期は、政府の指示で洋行した者が多かった。中でもよく知られているのが、森鷗外と夏目漱石だろう。

それぞれが滞在中の出来事を日記に記し、今日でも簡単に読むことができる。鷗外の場合は彼のデビュー作『舞姫』にも、日記以上に洋行経験が反映されている。近松作品にも通じるような男女の悲恋は、ドイツの都市の描写の中で新たな物語として、近代日本文学の嚆矢(こうし)となった。実生活でも、ドイツ人女性が鷗外を追って日本に来てしまうという椿事があった。そして『舞姫』は、次のように結ばれる。

「嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり」

 主人公の友人である大臣秘書官・相沢が表象する、旧習が支配的な社会(日本)のモラル(義理や人情)を配慮しつつも、思わずわき上がる怨嗟。それは、ドイツから帰国した後、日本社会が彼に要請する軍医としての生き方を実践しながら、洋行にて体得したであろう近代人のありようを、小説という世界で表現しようとした、鷗外の生き方を窺わせる。

 官製洋行を果たした人々による啓蒙の時代が一段落し始めると、私費にて洋行する、遊学の徒が目立ってくる。

 その中に西洋音楽の日本への紹介に大きな役割を果たした、日本初の音楽批評家、大田黒元雄もいた。大田黒の著作『バッハよりシェーンベルヒ』は、バッハを起点に、12音技法で知られる同時代の作曲家アルノルト・シェーンベルクまで、60の作曲家の作風紹介と評伝になっている。

  その序文で、大田黒は「自分は音楽の専門家ではない」とはっきり記している。彼は経済学を学ぶためロンドン大学に留学した傍ら、現地の劇場などで演劇や音楽に親しんだのだった。いち音楽愛好者の視点から音楽芸術を紹介し評論する、そうした大田黒の存在そのものが、大正期の、新しい時代の文化受容のあり方を象徴していた。

 それはまた日本の社会が、西欧と肩を並べ始めた証でもあった。

 さらにこの時代、さまざまな社会の変化が、諸外国とシンクロしてくる。労働運動、コミュニズムの台頭は、パリやロンドンなどと同様に、東京でも巻き起こっていた。世界を股にかけ共闘しようとする、活動家の生々しい様子を描写しているのが、無政府主義者・大杉栄の『日本脱出記』(土曜社より刊行中)である。ベルリンの国際無政府主義大会に参加するために、監視を振り切って日本を脱出するさまは痛快だが、それ以上に興味深いのが、フランスに渡り大杉が目の当たりにした、パリの記述である。

「なるほど大通りは大通りに違いないが、ちょうどあの、浅草から万年町の方へ行く何とかいう大きな通りそのままの感じだ。もっとも両側の家だけは五階六階七階の高い家だが、そのすすけた汚さは、ちょっとお話にならない。自動車で走るんだからよくは分らないが、店だって何だか汚らしいものばかり売っている。そして通りの真中の広い歩道が、道いっぱいに汚らしいテントの小舎がけがあって、そこをまた日本ではとても見られないような汚らしい風の野蛮人みたいな顔をした人間がうじゃうじゃと通っている。市場なのだ。そとからは店の様子はちょっと見えないが、みな朝の買いものらしく、大きな袋にキャベツだのジャガ芋だの大きなパンの棒だのを入れて歩いている」

 大杉はフランス大衆の生活を、日本と大差ない、むしろより過酷なところもあると感じたようである。ここでの洋行は、もはや西洋の優れた文物を吸収するのではなく、同様の人間による、別の地域の営みを確認する行為になっている。

 大杉の「脱出」という名の洋行から10数年後の1936年、当時「文学の神様」とも呼ばれた人気作家、横光利一がヨーロッパへ洋行する。自身が属する社会からも超然としていた大杉とは異なり、「日本人としての純粋小説」を追求する横光は、日本人であることを強く意識していた。

 そして旅行記『欧洲紀行』、さらに洋行体験をベースに書かれた未完の大作『旅愁』では、日本と西欧文化の比較が繰り広げられ、日本文化の優位性が模索される。

『旅愁』では、思いを寄せる女性・千鶴子のカトリック信仰に対して、主人公・矢代は古神道を持ち出し、幣帛(へいはく)※紙で作られた神具の切り方に近代科学に匹敵する数学性を見いだしたりする。

 しかしその様子は、現代の目から見たときに、かつて吉本隆明が言及したように「悲惨で滑稽」に映る。アジアで最も近代化を果たし、天皇を元首とする伝統ある国家、日本。

 当時の一般的な日本人が共有していたであろうそうした矜持をもって洋行した横光は、欧州の異文化に触れ、それを積極的に吸収するわけでもなく、相対化して分析や理解をすることもできず、コンプレックスにも似た感興とともに自尊の裡に籠ってしまった。その様子は、国際社会から孤立し戦争へと進む当時の日本の姿とも重なる。
 敗戦後、洋行という言葉は途端に聞こえなくなる。代わって観光や留学といった、目的性の強い言葉が使われるようになった。それは日本と欧米の間に差異が少なくなったことの証であり、同時に、東京を、日本を牽引した洋行帰りの紳士たちが担った文化の終焉でもあった。

■森 鷗外[もりおうがい]/1862年島根県生まれ。東大医学部卒業後、陸軍軍医となり、ドイツに留学する。帰国後外国文学の翻訳を手がけ、その後『舞姫』を発表。以後軍医と作家双方で晩年まで活動した。1922年死去。

■大田黒元雄[おおたぐろもとお]/1893年東京都生まれ。経済学を学ぶためロンドンへ留学。その際得た知識をもとに『バッハよりシェーンベルヒ』を著した。戦後も音楽からファッション、スポーツまで幅広く執筆活動を行った

■大杉 栄[おおすぎさかえ]/1885年香川県生まれ。東京外国語大学仏文科在学時に社会主義活動家に。後にアナキズムに傾き、フランスに渡った際メーデーで演説を行い強制送還された。関東大震災直後憲兵により殺害された。

■横光利一[よこみつりいち]/1898年福島県生まれ。早稲田大学在学中より文筆活動を開始。『日輪』『上海』『機械』などで、文壇の中心的存在となった。欧州外遊後に長編『旅愁』を書き始める。戦後は戦犯追及され、1947年に死去。

この記事の執筆者
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菅原幸裕 編集者
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MEN'S Precious2016年春号「東京ジェントルマン50の極意」より
『エスクァイア日本版』に約15年在籍し、現在は『男の靴雑誌LAST』編集の傍ら、『MEN'S Precious』他で編集者として活動。『エスクァイア日本版』では音楽担当を長年務め、現在もポップスからクラシック音楽まで幅広く渉猟する日々を送っている。
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イラスト/早乙女道春 構成・文/菅原幸裕