「歴史の動かし難い証言によれば、アルコール性飲料はどの時代にも、最も強くて賢明で堂々とした、すべての点で最もすぐれた種族によって用いられてきたのだ」。こう綴った文学史家ジョージ・セインツベリーの生きた19世紀後半から20世紀初頭にかけての英国は、圧倒的な力で世界の覇権を握っていた。ワインのみならず、シャンパーニュ、シェリーなども、この時代の英国が世界中から手に入れた「地酒」をイギリス人が洗練させて、現在のような形になったものだ。

 現在のようなワインを作り上げ、世界中に広がったのは、イギリスの影響も大きい。現在でも、豪州、ニュージーランド、南アフリカなど、イギリス連邦に属する国々で国際競争力のあるワインが作られているのも、その証左である。だからワインは、イギリスの酒とも言えるのだ。

 女王陛下のもとに、貴族、政治家、労働者、はたまた海賊までもが、すべての階層がそれぞれにふさわしい酒を楽しむ。そんな文化の力強さがなければ、今もワインなどは単なる地域性の強い地酒のままだったろう。これは、誰かのご高説というよりは、歴史的事実。ワイン通を気取るなら、押さえておきたい基本知識なのである。

そして、そのイギリスのの飲酒文化を象徴する「パブ」の様子から、歴史が見えてくるのである。

 英国出張となれば、ロンドンである。ロンドンで仕事がなくてもロンドンに寄る。いきつけのパブ「ザ・フレンチ・ハウス」が待っているからである。

 パブといってもワインが売り物で、既に創立100余年。

 現地ロンドンの撮影コーディネーターの紹介で知った。ソーホーという場所柄、芝居関係者も多く、そこにジャーナリストやアーティストが交じり、夜が深まれば全員が勝手にしゃべりだし、店はいかにもソーホーらしいコクのある酔いっぷりを露わにする。となれば酔いにまかせてこっちも拙い英語で参戦だ。

「近頃のプーチンをどう思う?」
「シェイクスピアで一番好きな芝居は?」
「日本と中国、どちらが英国の友だ?」

 こんな質問を隣席の赤ら顔にすれば、相手は30分やそこらひとり舞台を演じてくれる。ぼくはそれをエッセイでも読むように、適当に相槌をうちながら、聞いていればよい(といってもロレツがまわらないシェイクスピア論など半分以上理解不能だがね)。

 話の輪は瞬く間にひろがり、プーチンの物マネをロシア語でやるヤカラが突如現れたりして、パブは軽度のパニック状態を程することになる。

 昨今のロンドンの、DJがいるようなパブじゃこんな人間臭い世界は見ようと思ったって見られやしない。

 ボルドーをぼちぼちやりながら、どこまでも話好きで酒好きな彼ら英国人男女を観察する。これこそがぼくのロンドン最大の愉しみなのだ。

 しかし、なぜビールではなくワインなのだ? そう思われる方もいるだろう。英国ならビールやスコッチウイスキーではないのか、と。ごもっともである。だが、答えはイエス&ノー。現代英国を代表する酒はむろんビールとスコッチだが、英国人は古くから無類のワインドリンカーでもあったのだ。

 フランスのボルドーは中世の一時期イングランド王の重要領地だったことをご存じだろうか。ジェームズ・ボンドは1971年公開の『007ダイヤモンドは永遠に』のラストの会食シーンで「クラレットをだしてくれ」と言うが、クラレットは「クリアーレッド」が訛ったもので、ボルドーはメドックの赤を指す英国人用語。そんな言葉が巷間に広がるぐらい、英国人、なかでも王室を筆頭にする上流階級はワインに夢中になったのである。

 同じようなことがポルトワインについても言える。フランスとの百年戦争に敗れた英国は、ボルドーを返さざるを得なくなる。さあ、困った。あのとびっきりのボルドーワインが飲めない!

 そこでいろいろ試してみたら、発酵中のポルトガルワインにブランデーを加えることで、ふくいくたる甘口ワインができることがわかり、ポルトワインは一躍英国中に広がる。シェリー酒の発祥も同じようなものだ。英国の場合、国力の伸長時にはなぜかこういう具合に酒や、煙草、香辛料などの嗜好品が絡んでいることが多い。

 フランスの名産であり、食前や祝いの席で世界に愛される発泡ワイン、シャンパンですら、英国なかりせば今のような味わいではなかったかもしれない。

 つまり、19世紀、ポルトやシェリーなど英国上流階級に既に定着していた甘口食後酒に対抗し、辛口の食前酒としてマーケティングし、輸出したからこそ、現在の辛口シャンパンは、大ヒットしたのである。辛口を意味するBrutという言葉自体、英国人を指すBritや野蛮人の意であるBrutesからきているという説もあるぐらいなのだ。

 これらワイン類とその延長線上にあるコニャック、18世紀にかなり力づくで併合したスコットランドのスコッチウイスキーを加えたのが上流階級のドリンクリスト。いかに彼らがう・ま・酒・を好むかおわかりでしょう?

 では庶民はどうなのか、というと、現在は「地酒」であるエールやラガーのビール類の人気が圧倒的だが、その前はなんとジンだった。

 もともとオランダで薬用としてつくられたが、蒸溜酒にジュニパーの木の実で風味づけするだけという簡単な製法が受け、18世紀に一挙にブレイク。安く、強く、うまいものだから、労働者階級は夢中にもなるでしょう。

 現在のパブの原型のひとつは彼らにジンを飲ませる「ジンショップ」だったのである。

 近頃はクラフトジンも人気である。もう一種、庶民の酒として忘れてはいけないのがラム酒だ。サトウキビを原料にしたこのカリブの蒸溜酒も起源は諸説あるが、18世紀に英国海軍の、今流に言えばオフィシャル・ドリンクとして水兵に配給されたことで、英国人の肝臓にはすっかりおなじみとなった。

 欧州のグルメ民族というとぼくたちはすぐにフランス人、イタリア人の名を挙げるが、どうだろう、酒に関しては英国人の存在感が屹立していないか。世界をまたにかけ、発見し、開発し、流通させ、まさに自じ家か薬籠中ならぬ自家酒蔵中のものとしてゆく好奇心とヴァイタリティ。彼らが酒史上の最重要キャストであることは疑いようもない。

 冒頭に挙げたパブで、ぼくが会話のきっかけに使う質問がもうひとつある。みなが喜んで自説を披歴してくれるその質問は、「きみたち英国人はなぜそんなに酒が好きなのかね?」である。

この記事の執筆者
TEXT :
林 信朗 服飾評論家
BY :
MEN'S Precious 2016年秋号ワイン&シャンパーニュ、シェリー、ジン大英帝国が磨き上げた、「美酒」に陶酔せよ より
『MEN'S CLUB』『Gentry』『DORSO』など、数々のファッション誌の編集長を歴任し、フリーの服飾評論家に。ダンディズムを地で行くセンスと、博覧強記ぶりは業界でも随一。
クレジット :
撮影/Luke Carby  文・林 信朗