「ミホコ! お父さんが、お父さんが…。お風呂で倒れて、救急車で病院に運ばれたの。今すぐに帰ってきてちょうだい!」

その日、年度末の追い込み作業で残業していたミホコさん(51歳・会社員)のもとに、母親のキミコさん(75歳)から、泣き叫ぶような声で電話がかかってきたのは、今年3月のこと。父親のヨシヒコさん(78歳)が風呂場で倒れて、救急搬送されたというのです。

とるものもとりあえず、同僚に仕事の引継ぎを頼んで、その日の深夜、ミホコさんは、東京から夫の運転する車で実家のある栃木へ。ヨシヒコさんが搬送された病院へと急ぎました。

医師の診断は、脳血管疾患。いわゆる脳卒中で、緊急手術を受けている最中でした。でも、そのかいもなく、ヨシヒコさんは帰らぬ人となったのです。

「突然の父の死に呆然とする母、結婚して海外で暮らしている妹に代わって、私は悲しむ暇もなくお通夜や葬儀の準備に追われることになりました。何よりも困ったのが、父の銀行口座が凍結されて、お金を引き出せなくなってしまったことでした」(ミホコさん)

「孫のために」という優しい気持ちで作られた銀行口座が、家族を悩ませることに…

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「孫のために」という優しい気持ち

 ヨシヒコさんは、現役時代は大手電機メーカーの営業のエース。在職期間中の給与もまずまずだったため、キミコさんと合わせて、年間400万円近い年金をもらっていました。

コツコツ貯めた貯蓄もあったため、定年後は働かなくても暮していけましたが、「孫におこづかいをあげたいから」と、週2回はアルバイトに行っていました。そのバイト代を、都市銀行や地元の信用金庫、ネットバンクなど、あちこちの銀行に口座を作って、少しずつ預け分けていたのです。

ところが、「孫のために」という優しい気持ちで、あちこちに作られた銀行口座が、ヨシヒコさんの死後、ミホコさんを含めた家族を悩ませることになったのです。

いざというとき、家族が困らないにようにするために、高齢になったら銀行口座はどのように管理すればよいのでしょうか?「身近な人が元気なうちに話しておきたいお金のこと介護のこと」(東洋経済新報社)などの著書がある社会保険労務士の井戸美枝さんにアドバイスしていただきました。

預金が凍結されると出入金や引き落とし、振り込みなどが一切できなくなる

預金が凍結されると出入金や引き落とし、振り込みなどが一切できなくなる
預金が凍結されると出入金や引き落とし、振り込みなどが一切できなくなる

銀行や信用金庫などの金融機関は、預金者が亡くなったことを家族から知らされたり、新聞の訃報欄などで預金者が亡くなったこと確認したりすると、その口座を凍結します。口座が凍結されると、たとえ家族でもそのお金を引き出すことはできなくなります。

●口座が凍結されるとできなくなること

・預貯金の預け入れや引き出し
・口座からの引き落とし(公共料金やクレジットカードの自動引落など)
・口座への振り込み(年金や給与の支払いなど)

この他、貸金庫を借りている場合は、開閉もできなくなるので、なかに預けたものの出し入れもできなくなります。

 預金していた人が亡くなると、その預金は相続財産となり、遺産分割の対象になります。そのため、相続のトラブルを未然に防ぐため、銀行は口座の凍結を行い、遺産分割協議がまとまるまで、故人の預貯金は引き出せなくなるのです。

 身近な人が亡くなると、家族は通夜や葬儀などを執り行うことになりますが、葬儀費用や僧侶へのお布施などは現金で支払わなければならず、まとまった現金が必要になります。

ミホコさんも、通夜や葬儀の費用のために、ヨシヒコさんがメインバンクにしていた地元の信用金庫でお金を下ろそうとしましたが、すでに口座が凍結されていたため、引き出すことができませんでした。

「父は、ほかの銀行にもお金を預けていたようですが、その時は、それらの口座の存在も知りませんでしたし、知っていても暗証番号が分かりませんから、引き出すことはできなかったでしょう。実家では、父がすべてお金を管理していて、母名義の預金はほとんどありません。そのため、夫に相談して、我が家の貯金を取り崩して葬儀費用を立て替えました」(ミホコさん)

民法改正で2019年7月1日から、150万円まで預貯金の引き出せるようになったが……

法定相続人全員の合意があれば、遺産分割協議が終わっていなくても、預金の引き出しをすることはこれまでも可能でした。でも、相続人全員の戸籍謄本や印鑑証明などを用意する必要があり、遺産分割で揉めていると、それもままならず、預金者が亡くなった直後に必要な、葬儀費用などの支払いに間に合わないことがありました。

「でも、銀行口座の凍結によって、当面必要なお金が使えないのは、市民生活に大きな影響を与えます。そこで、民法が改正されて、2019年7月1日からは、遺産分割が終わる前でも、家庭裁判所の判断を経ていなくても、一定の範囲で預貯金の払い戻しができるようになったのです」(井戸さん)


●預貯金の払い戻し制度

相続された預貯金債権について、生活費や葬儀費用の支払い、相続債務の弁済などの資金需要に対応できるように、遺産分割前でも払い戻しが受けられる制度。2019年7月1日施行。

①家庭裁判所の判断を受けなくても、払い戻しが受けられる制度

相続財産の預貯金債権のうち、一定額までは、ひとりの法定相続人が単独で払い戻しを認められるようになった。ひとつの金融機関から払い戻しを受けられるのは150万円まで。

・単独で払い戻しを受けられる金額=相続開始時の預金額(口座・明細ごと)×1/3×払い戻しを求める相続人の法定相続分

②保全処分の要件緩和

仮払いの必要性があると認められる場合には、他の共同相続人の利益を侵害しない限り、家庭裁判所の判断で仮払いが認められるようになった。


上記2つのうち、葬儀費用や生活費のために利用できるのは、①の預金の仮払い制度です。たとえば、法定相続人が長女と次女の2人で、預貯金が600万円の場合、長女は100万円まで仮払いを受けることができるようになったのです。

 ヨシヒコさんが亡くなったのは、今年3月だったため、ミホコさんは預貯金の払い戻し制度は利用できませんでした。でも、今後は葬儀費用や当面の生活費が必要な場合は、制度を利用すれば、ひとつの金融機関で最大150万円まで、親の銀行口座の預金の払い戻しが受けられます。

 預貯金債権の払い戻し制度の創設によって、以前よりも比較的簡単にお金が引き出せるようにはなりましたが、払い戻しには、亡くなった人の戸籍謄本、法定相続人全員の戸籍謄本(戸籍抄本)、払い戻しを受ける人の印鑑登録証明などを用意する必要があります。銀行に行けば、その場で簡単にお金を引き出せるわけではありません。

預貯金
預貯金債権の払い戻し制度の創設によって、以前よりも比較的簡単にお金が引き出せるようにはなったが…

その点、生命保険は、配偶者や子どもを受取人にして生命保険に加入しておけば、被保険者(その保険の保障の対象になる人)が亡くなった場合、受取人は単独で保険金の請求ができるというメリットはあります。

預貯金債権の払い戻し制度よりも、比較的簡単にお金を手にすることはできますが、生命保険も請求は必要です。それに、請求してから保険金が振り込まれるまでには、契約内容になにも問題がなくても、数日から10日程度のタイムラグがあります。

高齢になったら「贈与税のかからない範囲で、配偶者や子どもの名義の預貯金に預け分ける」など準備を

身近な人が亡くなると、家族は葬儀の手配、関係先への連絡などで忙殺されます。その時に、葬儀費用や当面の生活費を用意するために、戸籍謄本をとって預貯金債権の払い戻し制度を利用したり、保険金の請求手続きをしたりするのは、現実的ではありません。

 身近な人が万一のときに、すぐに役立つのはなんといっても現金です。井戸さんは、「ある程度の年齢になったら、葬儀費用や残された家族の当面の生活費として、贈与税のかからない範囲で、配偶者や子どもの名義の預貯金に預け分けておいて、家族にわかるようにしておいてほしい」とアドバイスします。

ヨシヒコさんのように、とくに健康に問題がなくても、人間いつ何が起こるかわかりません。ある程度の年齢になったら、いざというときの準備をしておくようにしたいものです。

ヨシヒコさんの預貯金を引き出せなかったため、自分の貯蓄を取り崩して費用を立て替え、なんとか葬儀を乗り切ったミホコさんでしたが、哀しむ間もなく、次に待ち受けていたのが相続手続きです。

亡くなった人の預金を相続するためには、法定相続人全員の戸籍謄本などが必要になりますが、ヨシヒコさんがあちこちに銀行口座をしていため、膨大な手続きが必要になってしまったからです。さらに、妹のリオさんは海外で暮らしているため、このケースでは特別な手続きも必要になりました。

後編では、亡くなった人の預金を相続するための銀行の払い戻し手続きについて、確認していきます。

井戸美枝さん
社会保険労務士、ファイナンシャルプランナー
(いど みえ)公的年金をはじめとする社会保険に精通し、厚生労働省の社会保障審議会企業年金部会の委員も務める。新聞や雑誌、ネットサイトでの連載、またテレビやラジオ出演、講演などを通じて社会保険制度や資産運用、ライフプランについてアドバイスしている。「難しいことでもわかりやすく」がモットー。『大図解 届け出だけでもらえるお金』(プレジデント社)、『100歳までお金に苦労しない定年夫婦になる!』(集英社)、「身近な人が元気なうちに話しておきたいお金のこと介護のこと」(東洋経済新報社)など著書多数。

■大好評マネー連載!「今さら聞けないお金のお話」

Precious.jpでは、大人の女性が素敵な時間と空間を過ごすための元となる、お金とうまく付き合う方法を、税やお金に詳しいエディター・早川幸子さんがていねいに解説しています。こちらのページにこれまでの記事がまとまっています。是非、ご覧ください。

この記事の執筆者
1968年、千葉県生まれ。編集プロダクション勤務後、1999年に独立。医療や年金などの社会保障制度、家計の節約など身の回りのお金の情報について、新聞や雑誌、ネットサイトに寄稿。おもな著書に「読むだけで200万円節約できる!医療費と医療保険&介護保険のトクする裏ワザ30」(ダイヤモンド社)がある。