ジェントルマンはダンディを撲滅しようとしたことがある
さて、ここで確認しておきたいことがある。ジェントルマンとダンディは違うということである。
どちらもスーツを美しく着こなす男であり、イギリス文化に発する男性理念なので、同じように見えて紛らわしいし、まあ、メンズファッションという面だけから見れば、ことさら両者を明確に区別する必要はないのかもしれない。
しかし、本来、両者は別々のカテゴリーに属する種族であり、歴史のある過程においては、ジェントルマンによるダンディ撲滅キャンペーンまで行われていたことは忘れないでおきたい。
ダンディズムが生まれたのは19世紀、その基本にあるのは、あくまで男の洒落者道である。精神的態度の問題に発展するとしても、それはどこかで装いと関わる。
それに対し、ジェントルマンシップの起源は、中世あるいはそれ以前にまでさかのぼる。統治者として、文化的リーダーとして、いやときにはひとりの男としての理想的なあり方に関わるのが、ジェントルマンシップである。したがって、ジェントルマン理念のほうは、装いばかりではなく、広く政治・経済や教育、戦争やスポーツにも関わってくる。
ジェントルマンシップという大木のひとつの小枝として、ダンディズムがある。
そのようにとらえていただいてもよいかもしれない。ジェントルマンシップはあくまで主流であり、その伝統のなかでダンディズムという異端の小枝が生まれた。だから、小枝のダンディズムが育ちすぎるとき、本体たるジェントルマンシップをそこねてしまうような事態が生じることもある。
この事態を思いきり平たく言ってしまうと、こういうことだ。「お洒落にかまけすぎている男はジェントルマンではありえない」
前述の、ジェントルマンによるダンディ撲滅キャンペーンはまさにこれが理由であった。トマス・カーライルによる『衣服哲学』(1833〜34)もこのキャンペーンの一環として書かれている。第三部第10章「ダンディという宗派」は「衣服を着るために生活する」ダンディを痛烈に攻撃した章でもある。
ご参考までに、現代のイギリスで、褒めたつもりで「ダンディですね」と言おうものなら、多くの場合、不快な顔をされる。ダンディ(「ィ」をやや高めに発音される)には、お洒落好きな自己愛の強い男というイメージがあり、お洒落のアピールなど恥ずかしいことだと思っている主流のジェントルマンにとって、そのように見られることは好ましくないのである。
ではいったいなぜ現代の日本で「ダンディ=スーツを渋くかっこよく着こなす男」になってしまったのか?それは19世紀フランスのボードレールを筆頭とする、ダンディズム礼賛文学者、彼らの仕事を日本に持ち込んだ永井荷風らの影響ゆえなのだが、この点に関する議論は本稿では省略する。
開かれた、でもやはり排他的なモダン・ジェントルマン
21世紀にはITを筆頭に新しい職種の人たち、いわゆるニューリッチがジェントルマン層に加わる。海外の資本家も食い込んでくる。人種においても宗教においても多様性が広がり、ロンドン市長はパキスタン系イギリス人でイスラム教徒である。
彼らは旧来のジェントルマン像を大きく変えているため、モダン・ジェントルマンとも呼ばれている。昔からのジェントルマン、いわゆるオールド・エスタブリッシュメントが表面上はオープンに、内心では半分軽蔑しながら、諦念や寛容でもって新参者を受け入れている構図は、19世紀とあまり変わらない。なんといっても線引きを曖昧にするこの環境適応力こそジェントルマンのサステナビリティの礎(いしずえ)なのだ。
20世紀には、スーツを着たジェントルマンは、労働者階級と異なる言葉を話し、一目でジェントルマンとわかる服装をしていたが、21世紀のモダン・ジェントルマンはそうではない。労働者階級の英語を話したり、あえて高級ではないスーツを着たりする。
チャールズ皇太子はずっとビスポークを着てきたが、ウィリアム王子の結婚式には既製の(パターンオーダー)スーツを着用した。しかもターンブル&アッサーというシャツメーカーのスーツを。ビスポークは飽きた、というのが理由らしい。ヘンリー王子も労働者階級のアクセントで話し、自分の結婚披露宴のタキシードの着方すらいい加減だったりする。金融街シティでもビジネスのシーンなのにネクタイをつけない男性が増えている。
装いや話し方に「ジェントルマンらしさ」を求めることは困難になりつつあるのだ。職業においても、ジェントルマン養成機関で教育を受けながらオスカー俳優になるということまでありになっている。
だいたい、「あなたはジェントルマンですか?」と聞いても、モダン・ジェントルマンは「ノー」と答えることが多い。「僕はジェントルマンじゃない」と言うほうがかっこいいと思っている節がある。ジェントルマン文化は観光資源として残るとしても、ジェントルマン制度が開かれすぎて意味をなさなくなっているのではと感じることがある。
いや、ところが。時折、この制度の隠れた特徴でもある排他主義が顔を出すのだ。
シティでネクタイをつけないビジネスマンが増えているのは事実なのだが、2016年9月1日、BBCニュースは、シティに就職しようとする労働者階級出身の若者が、面接に茶色の靴をはいていけば不採用になる可能性があるという報告書の内容を報道した。
「ノー・ブラウン・イン・タウン(シティではスーツに茶色い靴を合わせない)」という伝統的なジェントルマンの掟を知らないものは排除されるという文化がいまだ健在であることを世に知らしめることになった。
また、ジェントルマンの社交場であるクラブは20世紀までと比べるとずいぶん「開かれた」ことになっているが、それでも伝統を重視するクラブは、ある一定の線引きを貫いている。
このように、随所で現れる、見えない「ジェントルマンの壁」をくずすべく、ジェントルマンになるためのガイドブックの類(たぐい)が出回っているが、これらはむしろ強烈な皮肉がこめられた本として扱ったほうがよく、内容をそのままうのみにすれば、彼らにぐさりとやられる。
それも、知性と教養でオブラートにくるみ、一見傷つけている感じはしないけど痛烈という皮肉で。オスカー・ワイルドは、「ジェントルマンは、無意識に人を傷つけることはない」という名言を残しているが、つまり、気に入らない輩(やから)は意識的に傷つけることはあるということだ。
ジェントルマンの世界は、オープンになったように見えて、実はクローズドな世界であることに変わりない。
本物には本物どうししかわかりあえない秘儀的な約束事がある。核心は常に見せない――時折、ちらと誇示されるそうした排他主義は、実はジェントルマン文化の抗(あらが)いがたい魅力でもあるのだ。
- TEXT :
- MEN'S Precious編集部
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- WRITING :
- 中野香織
- コーディネート :
- 森 昌利・大平美智子