働き方、生き方…さまざまな価値観が揺らぐ今、ときに自分を、未来を見失いそうにもなりますが、大丈夫! 私たちには“本”があります。目利き揃いの読書家たちが“今”を見つめた珠玉のブックセレクトをお届けします。
雑誌『Precious』5月号では特集「知的欲求を満たすニュー・ノーマル時代の読書案内」を展開中。その特集のなかから、本記事では感性を揺さぶる「美しい日本語」をご紹介。
5人の読書家が本で出合った言葉の美しさを語ってくれました。
目で見て、声に出してかみしめる日本語の美
年齢を重ねてこそわかる「美しさ」がある。そのことを、私たちはよく知っています。読書で出合う日本語においても同じで、以前は記憶にも残らなかった言葉が、時を経てから改めて読み直してみたら、驚くほど心に沁みた、という体験をしたことがある人も多いでしょう。
キラキラした描写に目を奪われがちな時代を経て、並んだ文字の奥深くに込められた精神的な美しさに気付けることは、大人ならではの喜びです。
もちろん見た目も大切です。
漢字が好きだという酒井順子さんは「漢字とひらがなの配分も重要。明治の作家の文章は美しいものが多い」と語り、川上弘美さんは、「ひらがなに開いた文字が並んだときの、形の美しさにも惹かれる」と言います。
そして、読んだときの日本語の美しさを教えてくれるのは山根基世さん。小池昌代さん、穂村弘さんは、削ぎ落とされた言葉のなかに、無二の美を見出します。さあ、感性を揺さぶる美しい日本語を探しにいきましょう。
■1:酒井順子さん推薦!|夏目漱石『草枕』
『水の底に沈められたこの水草は、
動くべき凡ての姿勢を調えて、
朝な夕なに、弄らるる期を、待ち暮らし、
待ち明かし、幾代の思を茎の先に籠めながら、
今に至るまで遂に動き得ずに、
又死に切れずに、生きているらしい。』
「年を重ねるにつれ、草花に興味をもつようになった。同じように本を読んでいても、若い頃は読み飛ばしていたような自然描写に、深く感じ入ってしまう。自分から生命力が流れ出てゆく年頃ゆえに、植物のように命を漲みなぎらせている存在に心惹かれてしまうのかも。
『草枕』は、全編が春のお話で、野山の植物を見つめる主人公は、おそらくまだ青年であるにもかかわらず、老生した視点をもっていて、それもまた明治の文学の魅力である。大人にこそ沁みる、ディスカバー・漱石な一冊」
■2:川上弘美さん推薦!|中 勘助『銀の匙』
『そら豆の葉をすうと
雨蛙の腹みたいにふくれるのが
おもしろくて
畑のをちぎってはしかられた。
山茶花の花びらを
舌にのせて息をひけば
篳篥ににた音がする。』
「どこをとっても美しい文章なので、パッと開いて、この箇所に決めた。語り手である主人公が見た、繊細な美の世界。中勘助の自伝的小説である。少年はこの純粋な目をもったまま10代になり、時代が戦争へと流されていくなかにあっても、世の中が押し付ける画一的な価値観や、同調圧力には決して与しない。自らの感性、信じる美のため、しなやかに強く人生をわたっていく、その語り手の姿勢が、美しさとして文章に表れているのだと思う。不安が蔓延している今こそ読んでほしい」
■3:穂村 弘さん推薦!|『明石海人歌集』
『深海に生きる
魚族のように、
自らが燃えなければ
何処にも光はない』
「歌人明石海人は、当時は不治とされたハンセン病による失明、さらには咽頭切開という過酷な状況の中で言葉を磨き、現実を超えた象徴表現を目指した。『深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない』とは、死の4か月前に刊行された歌集『白描』の序文の一節。
物書きはもちろん、政治家やプロレスラーなど意外な人物が意外なところで引用するのを見たことがある。万人の命を目覚めさせるような特別な言葉だと思う」
■4:小池昌代さん推薦!|『新古今和歌集』・白洲正子『花にもの思う春』
『山深み春とも知らぬ松の戸に
たえだえかかる雪の玉水―式子内親王』
「日本語という言海の、いちばん深い底に静かに横たわっているもの、それが和歌だ。最初はよくわからないけれども、年月をかけて味わううち、曇りが晴れるように少しずつわかってきて、しかしすべてを掴みきれるわけもなく、やがては胸の内、雪のごとく消えてしまう。
掲出の歌は式子内親王による一首で、『新古今和歌集』に収録されている。まだ春が来たことをだれも知らない(松の戸も知らない)、そんな深い山の中、素朴な木の戸に雪解け水が滴り落ちている。
歌は単体で読むのもいいが、それについて書かれたエッセイを読むのも喜び。歌の響きが倍音を得たように幾重にも広がるから。そこで白洲正子による『花にもの思う春』を薦めたい。自在な魂の動きに誘われて、ふっと幽玄を垣間見る」
■5:アナウンサー・山根基世さん推薦!|正岡子規『仰臥漫録』
『彼の同情なきは誰に対しても同じことなれども
ただカナリアに対してのみは真の同情あるが如し
彼はカナリアの籠の前にならば一時間にても二時間にても
ただ何もせずに眺めて居るなり』
「仰臥することしかできない重病の正岡子規、最後の日記。妹・律の献身的な介護がなければ一日も生きられぬことを自覚し感謝しつつも、ままならない自分の体に苛立ち、律に腹を立てる。食べて排泄するばかりの自分を客観的に見つめ克明に記録している。同時に刻々と揺れ動く感情を飾らず記していて、生きることの本質を考えさせられる。率直な話し言葉に近い文語体が美しい。朗読すると、子規と同じ呼吸で語っている気分になる。」
※掲載した商品はすべて税込です。
- PHOTO :
- 唐澤光也(RED POINT)
- WRITING :
- 本庄真穂
- EDIT&WRITING :
- 剣持亜弥(HATSU)、喜多容子(Precious)