ノーベル賞作家が「イギリスで最も素晴らしい田園風景」と主人公に言わせた場所
2017年のノーベル文学賞受賞者、カズオ・イシグロの代表作『日の名残り(The Remains of the Day)』は、ある老齢な執事が主人から休暇をもらい、英国南西部へのドライブ旅行に出、その先々で過去を振り返る小説。
ジェームズ・アイヴォリー監督による映画は、1994年のアカデミー賞で8部門にノミネートされたため、小説は読んだことはないけれど、映画では観たという人も多いかもしれません。
時は1956年、英国では第二次世界大戦後の経済復興の過程で、かつての貴族階級が衰退。主人公が執事を務める領主の館「ダーリントン・ホール」もアメリカ人の手に渡り、今の主人はアメリカ人。そのアメリカ人の主人から、「ひとに仕えてばかりで、君らはせっかくのこの美しい国をいつ見て歩くんだい」(ハヤカワepi文庫、土屋政雄訳、以下同)と、休暇を取ることを勧められる主人公。
逡巡の末に、主人公の執事スティーブンス(映画ではアンソニー・ホプキンス)は、主人の車(原作ではフォード、なぜか映画ではダイムラー)を借りて、戦前にともに働いた女中頭のミス・ケントン(映画ではエマ・トンプソン)に再会することも目的に加えて、ミス・ケントンの住むコーンウォール州(イングランド最西端の州)を目指します。
この小説の冒頭、主人公のスティーブンスは「私はイギリスで最もすばらしい田園風景のなかを西へ向かい」と、これから自分が出かける地方の素晴らしさについて語っています。また、デヴォン州(Devon)とコーンウォール州(Cornwall)について書かれた本も、事前に読んで出かけていることがわかります。
ノーベル賞作家の代表作に描かれている、英国の田園風景…。しかも主人公に「イギリスでもっとも素晴らしい田園風景」と作中で言わせているのは、はたしてどんなに美しいところなのか…。
そんなことが知りたくて、名作『日の名残り』で主人公が車での旅を続けたデヴォン州とコーンウォール州を、実際にレンタカーで巡ってみました。しかも、『日の名残り』の文庫本を携え、読みながら!
原作に従って、まず目指すはタビストックの街
原作を読むと、主人公はダーリントンホールのあるオックスフォード州からまず南下。バーク州を経由してウィルト州・ソールズベリー(Salisbury)で1泊。その後一路西に向かってサマセット州・トーントン(Taunton)で2泊目を過ごした後、デヴォン州とコーンウォール州の州境に近いタビストック(Tavistock)の近くに泊まり、最終的にコーンウォール州に入っています。
このタビストック近くの村での宿泊シーンは、全編を通じて最も印象的な場面。そこで私もまずは、タビストックを目指すことに。原作と同じようにオックスフォード州から行くのがベストかもしれないけれど、何よりデヴォン州とコーンウォール州でのドライブ旅行に時間を割くべく、デヴォン州の中でも大きな街であるエクセター(Exeter)から旅を始めることに。ここなら、ロンドンのパディントン駅から鉄道のアクセスも容易だし、レンタカーを借りるのにも便利です。
アガサ・クリスティが暮らした海辺の街にも寄ってみた
エクセターからまず向かうのはデヴォン州南部の海辺の保養地、トーキー(Torquay)。『日の名残り』とはなんの関係もありませんが、ここは『名探偵ポワロ』や『ミス・マープル』シリーズでも知られる人気作家、アガサ・クリスティが長く暮らした地。アガサ・クリスティについての展示がある地元の博物館(Torquay Museum)もあるので、ちょっと立ち寄りです。
なんといっても私の英国好きは、小学校3年の時に学級文庫で読んだアガサ・クリスティの『ABC怪事件』がきっかけなんですから、行かないわけにはいきません。ちなみにトーキーは、江ノ島みたいにスッコーンと明るい海辺の保養地という感じで、もちろんクリスティ好きには聖地的街なんだけれど、サスペンスが起こりそうな気配は皆無(ま、サスペンスと無縁の街で殺人事件が起こる…というのがクリスティのお得意手法なのですが)。
馬車時代と変わらない道路と茅葺きの民家・・・中世に紛れ込んだよう
『日の名残り』の中には、主人公スティーブンスがサマセット州トーントンから、どういうルートを通ってデヴォン州タビストックまで行ったか、詳しく描かれていません。ただ、幹線道路を避けて旅を続けたとだけ書かれているので、私もできるだけモーターウェイは避け、中世ながらの細い道を車で走ります。
そして次に向かうはダートムーア国立公園(Dartmoor National Park)です。デヴォン州の中央に広がる広大な荒地。1時間走っても岩、岩、岩…。植物も草のみで、心から寂しくなるような荒々しい原野です。日本人的感覚だと、国立公園といえばスワンボートが浮かぶ湖があって、緑が豊かで…というのを想像しがちですが、ここは延々荒れ果てた岩と草だけの大地。でも、英国人はこういう荒涼たる風景が大好きなんですねえ! 確かに、まだ植物が繁殖する前の、生まれたばかりの地球はこんなだったのかなと、ロマンにも近い魅力を感じます。
『シャーロック・ホームズ』シリーズにも登場するダートムーアの原野!
ダートムーア国立公園は、サー・アーサー・コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズの『バスカーヴィルの魔犬』の舞台として有名です。夏でも寒々しい広大な原野に立っていると、魔犬が登場してもなんら不思議でない気がします。
ダートムーア国立公園内には、有名な「ダートムーア刑務所」もあります。荒々しい原野の中に建つ19世紀からの監獄を観るとき、ここが数々の推理小説の場面にも登場した理由がわかる気がしました。
ダートムーアの原野は1時間、車で走り続けてもどこまでも岩と草の原野です。これではもし刑務所を脱走しても、逃げきれないのでは…などと思っているうちに、道の両脇に木々が増え始め、徐々に下り坂になってきます。荒涼たる原野から、少しづつ人の香りがするようになってきたあと、にわかに中世以来の道(イギリスの道は幹線のモーターウェイを除くと、ほぼ馬車時代から変わらぬ道幅)が街中に。小さなタウンホール(町役場みたいなもの)があって、それがタビストックの街です。
夕方が一日でいちばんいい時間なんだ
旅先での場面と戦前の回想場面が行きつ戻りつするという、独特の手法が魅力的な『日の名残り』の中で、特にタビストック郊外での場面は印象的です。
タビストックで1泊することを考えていた主人公スティーブンスは、農業祭のために宿がいっぱいで宿泊することができず、タビストック郊外に宿を求めて車を走らせますが、道に迷い、しかもガス欠で車が動かなくなります。周りを見回しても見渡す限りの草原で近くに人家は見えません。無情にも日は静かに暮れてゆき、最後の夕陽の赤さも少しずつ夕闇の群青色へと変わり、途方にくれる主人公。
カズオ・イシグロの小説では、ここで主人公は絶望感に打ちひしがれるわけですが、私の目には、この同じ風景こそが、最も美しい英国の田園風景に感じました。どこまでも続く緩やかな丘陵と、平坦な牧草地の連続。他所との境界を仕切る石積みの塀とわずかの低木。そこに夕暮れが訪れ、空気が静かに静かに落ち着いてゆくとき。徐々に空が紫になり、最後には血のように赤い最後の日も消えてゆく。
この時間こそが英国のいちばん美しい時間だし、その光景に接するのにこのデヴォン州、コーンウォール州の田園の姿がいちばん美しい。と、私は心から思います。
ノーベル賞受賞に際するインタビューの中で、カズオ・イシグロが「トム・ウェイツ(の曲)を聴いて書き換えた」と話した『日の名残り』の結末部分。ここで主人公スティーブンスは、海辺の街=ウェイマス(Weymouth、ドーセット州)で、たまたま居合わせた老人と話します。老人は、スティーブンスに「夕方が一日でいちばんいい時間なんだ」語ります。
日の名残り…日没…人生の残り日…いろいろなことを考えさせられる小説ですが、イギリスの普通の田園地帯の日没の美しさが際立っている、ということだけはお伝えしたいと思います。
…ところで、この長ーーーい記事は前半です。実はこの後、さらに英国最西端の州=コーンウォール州の魅力についてお話ししたいと思いますが…それは次回にて。
- TEXT :
- アンドリュー橋本 Precious非公式キャラクター