ウィリアム・S・バロウズは、詩人のアレン・ギンズバーグ、作家ジャック・ケルアックと共に1950年代から1960年代にアメリカ文学界に登場したビート・ジェネレーションを代表する作家である。彼らの作品や生き方は後のヒッピー・ムーブメントに多大な影響を与えたが、なかでもバロウズの小説『裸のランチ』はデヴィッド・ボウイやセックス・ピストルズ、カート・コバーンなどのミュージシャン、さらにアーティストやSF作家たちにとって大きなインスピレーションになるなど、現在にいたるまでそのカルト的な人気はいささかも衰えを見せていない。
麻薬と共に歩んだ男
存命中のバロウズの評価は決して好ましいものだけではなかったのだ。それどころかアメリカ社会のおおかたの見方では、バロウズは社会的異端児だった。
彼のバイセクシュアリズムは'50年代、'60年代のアメリカではとうてい受け入れられるものではなかったし、青年時代から始まった薬物依存、犯罪も併せ考えるとバロウズはパブリック・エネミー、すなわち、公共の敵的存在である。そんな男がなぜ最後まで筆を折らなかったのか。
ミズーリ州セントルイスの裕福な家庭に生まれたものの、バロウズの少年時代は幸福なものではなかった。学校に馴染めず、授業も退屈。おそらくそのときから自分のなかの両性愛指向に気がつき、苦しんだのだろう。バロウズはしだいに妄想の世界に浸り始め、それを書きとめるようになる。それに輪をかけたのが、16歳のとき初めて試した麻酔剤によるドラッグ体験である。
ハーバード大学で英文学を修めた後は、実家からの仕送りをたよりに住まいを転々とし、ニューヨークに辿りつく。そこで知り合ったのがアレン・ギンズバーグやジャック・ケルアックで(ギンズバーグとは性的な関係もあった)、バロウズの才能に着目した彼らの助力もあって、作品を書きだすが、そこで大事件が起きた。
すでに重度の薬物依存症であったバロウズは、ドラッグがなければ酒でごまかしていた。1951年9月、ギンズバーグとケルアックの紹介で知り合った内縁の妻のジョーンを、激しい飲酒の末、ピストルをつかった「ウイリアム・テルごっこ」で誤って射殺し、殺人容疑で逮捕される。しかし、その最悪の事態がバロウズの作家活動の原点となった。
「ジョーンの死がなかったら、けっして作家にはなれなかったろう。(中略)ジョーンの死はわたしに侵入してくる醜い霊と遭遇させ、生涯続く闘争に明け暮れさせた。ひたすら書くことによってしか逃げようがなかった」(バリー・マイルス著『ウィリアム・バロウズ 視えない男』より)
事件の後、30年以上を経てバロウズはこのように振り返っている。そして1953年、麻薬中毒者としての自らの体験を綴った『ジャンキー』を発表し、モロッコのタンジールに移住。麻薬、同性愛に明け暮れながらも、それまでに書き溜めた文章を再構成し、フランスのオリンピア・プレスから世に送ったのがビートニク文学の最高峰といわれる1959年の『裸のランチ』である。
ウィリアム・S・バロウズ
デヴィッド・クローネンバーグ監督により映画化(1991年)もされたこの長編小説には、筋らしい筋はない。ひとことで言えば麻薬中毒者ウィリアム・リーが語る幻視アルバムであり、ひとつの物語として捉えようとするとだれしもが混乱する。あえて言うなら、読む側もトリップしていないと捉え切れないのかもしれないが、そこには人種差別やキリスト教倫理の偽善、行き過ぎた消費などへのバロウズの仮借ない批判が敷き詰められている。
「現代アメリカの中にある虚偽、野蛮、悪徳のすべてに対する破壊的な嘲笑」(バリー・マイルス著『ウィリアム・バロウズ 視えない男』より)と、同じビートニク作家のテリー・サザーンが評しているように。
文中の過激な性描写でポルノグラフィーとしてアメリカ政府から発禁処分を受けたがため、『裸のランチ』はますます話題になった。︐70年代、'80年代も次々に新作を発表し、バロウズは、ニューヨークのカルチャーシーンに欠かせないセレブリティとなり、アンディ・ウォーホルや、パティ・スミスらとの交友が、マスコミを賑わす。
ドラッグからは足を洗った時期もあったが、65歳からまたヘロインに依存するようになり、83歳で他界するときまでこの人工の病からはついに逃れられなかった。
- TEXT :
- 林 信朗 服飾評論家
- BY :
- MEN'S Precious2015年冬号ダンディズム烈伝より
- クレジット :
- 文/林 信朗 イラスト/木村タカヒロ