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紀尾井町ってどこにあるの?「場所」

四ツ谷駅前は「上智大学 四谷キャンパス」があって賑やかです。上智大学には世界中に300を超える交換留学協定校があり、留学生がたくさん在籍しているのも特徴です。駅前は賑やかですが紀尾井町エリアの奥へと進むととても静かな環境です。
「上智大学四谷キャンパス」。四ツ谷駅前は学生たちで賑やかだが、紀尾井町エリアの奥へ進むと静かな住環境がある。

東京都千代田区紀尾井町があるのは、新宿区にある四ツ谷駅の南東側、港区にある赤坂見附駅の北側、千代田区にある麹町駅の南側。エリア内には、「ホテルニューオータニ(東京)」や「上智大学四谷キャンパス」、複合施設の「東京ガーデンテラス紀尾井町」などがあります。一戸建て住宅は少なく、高層ビルの多いエリアですが、皇居と赤坂御所の間にあって、豊かな緑が残されており、穏やかで心地よい雰囲気です。

紀尾井町の「最寄り駅」

賑やかな赤坂見附駅を出て青山通りを渡り、外堀にかかった弁慶橋を渡ると右手に複合施設の「東京ガーデンテラス紀尾井町」が現れます。左側の大きなビルは「紀尾井タワー」でホテルやオフィス、飲食店などが入っています。中央に見えるビルが「紀尾井レジデンス」でホテルライクな高級賃貸マンションです。
複合施設の「東京ガーデンテラス紀尾井町」。敷地内にはふたつの棟があり、写真左側のビルが「紀尾井タワー」でホテルやオフィス、飲食店などが入る。写真中央のビルが高級賃貸マンションの「紀尾井レジデンス」。

紀尾井町は、東京メトロ銀座線と丸ノ内線の通る赤坂見附駅や、東京メトロ半蔵門線と南北線、有楽町線の通る永田町駅、JR中央・総武線、東京メトロ丸ノ内線と南北線の通る四ツ谷駅、そして東京メトロ有楽町線の通る麹町駅と、紀尾井町は4駅6路線が使える抜群によい立地が魅力です。赤坂見附駅と永田町駅は改札内で連絡しているので乗り換えも便利。

紀尾井町の「地図」

紀尾井町の「歴史」と「由来」

景山致恭、ほか。『江戸切絵図 外桜田永田町絵図』嘉永2~文久2(1849~1862)年刊行(国立国会図書館デジタルコレクション)
景山致恭ほか編。『江戸切絵図 外桜田永田町絵図』嘉永2~文久2(1849~1862)年刊行(国立国会図書館デジタルコレクション)

江戸時代、紀尾井町界隈は、甲州街道が通過していて江戸城防衛の要所でした。徳川御三家の筆頭格である尾張名古屋藩徳川家の中屋敷や紀伊和歌山藩徳川家の上屋敷、そして近江彦根藩井伊家の中屋敷が置かれていました。上の画像「江戸切絵図」のちょうど左下辺りにありますが、かなり大きな敷地だったことがわかります。この御三家があった場所は高台で、尾張家と井伊家の間にある紀尾井坂の南側から喰違見附までは低地で清水が湧き出ることから「清水谷(しみずだに)」と呼ばれていました。

「ホテルニューオータニ東京」がある場所は、江戸時代に井伊家の中屋敷となる前は加藤清正の下屋敷がありました。400年以上前からの歴史の記録が残されている貴重な場所です。1万坪ほどある大きな日本庭園がホテルのシンボルになっています。庭園内には石灯篭が点在しています。中には、加藤清正の下屋敷時代からあるものも。
「ホテルニューオータニ(東京)」には、1万坪ほどある大きな日本庭園がある。

また、明治以降、紀尾井町周辺には、伏見宮家、北白川宮家、閑院宮(かんいんのみや)家などの皇族邸が置かれました。井伊家の中屋敷があった場所は、美しい庭園のある伏見宮邸となります。戦後、伏見宮家がこの土地を手放すにあたり、外国人の手に渡ろうとしたところを実業家の大谷米太郎が売り渡すのは惜しいと買い取り、荒れた庭園を改修。昭和39(1964)年、東京オリンピックの開催に合わせて「ホテルニューオータニ」を開業しました。

北白川宮家があったのは紀州徳川家上屋敷のあった場所です。北白川宮家が移転し、この場所には昭和5(1930)年に皇室邸宅として李王家の東京邸が建てられました。チューダーゴシック様式で建てられた格調高く美しい外観の建物です。この李王家の邸宅はのちに買収されてホテルになります。それが「赤プリ」という呼び名で親しまれた「赤坂プリンスホテル」です。李王家の東京邸はホテルの客室やバー、結婚式場やレストランとして利用されてきました。2016年、旧李王家東京邸は「東京ガーデンテラス紀尾井町」の「赤坂プリンスクラシックハウス」となってリニューアルオープンしています。

御三家筆頭、大名の最高位に位置していた尾張徳川家のあった場所には、現在は上智大学があります。

上智大学の横には「紀尾井亭」があり、その前に「尾張名古屋藩屋敷跡」の石碑があります。ここには、歴代首相や著名人が利用していた有名な料亭「福田家」がありました。現在は上智大学の施設となり保存されています。
上智大学の横にある「紀尾井亭」。ここには、歴代首相や著名人が利用していた有名な料亭「福田家」があった。「紀尾井亭」の前に「尾張名古屋藩屋敷跡」の石碑がある。現在は上智大学の施設となっている。

紀尾井町の「由来」とは?

赤坂見附付近にある「弁慶堀」から紀尾井通りを北に直進すると交差点があり、この交差点から外堀方向へ向かう急勾配が「紀尾井坂」という坂です。
外堀方向へ向かう急勾配を「紀尾井坂」という。左手に、「ホテルニューオータニ(東京)」がある。

紀州徳川家から「紀」を、尾張徳川家から「尾」を、そして井伊家から「井」をとって、この地にあった坂が「紀尾井坂」と名付けられました。明治になると、この坂道から町名ができました。

紀尾井町の3つの「魅力」

■1:東京の中心地ですが、緑の多いエリアです

千代田区立清水谷公園前の道で、明治11(1878)年に時の内務卿(ないむきょう)大久保利通が赤坂御所へ出仕する途中に暗殺されました。この事件は「紀尾井坂の変」と呼ばれています。事件後に現場近くに大久保利通哀悼碑が設置され、整備されて清水谷公園となりました。
「千代田区立清水谷公園」内。公園前の道で、明治11(1878)年に時の内務卿大久保利通が赤坂仮皇居へ出仕する途中に暗殺された。事件後、現場近くに「大久保利通哀悼碑」が設置され、整備されて「清水谷公園」となる。

紀尾井町は高層ビルの多いエリアですが、東に皇居があり、西には赤坂御所があり、豊かな自然も歴史も大切に保存されているエリアでもあります。紀尾井町にある千代田区立「清水谷公園」は、都会のオアシスとして親しまれている公園です。東京の真ん中にいることを忘れてしまうほど豊かな自然が残されています。もともと江戸時代に紀州徳川家と井伊家の屋敷境にあった谷間。谷筋から清水が湧き出ていたことから「清水谷」と呼ばれていました。そしてこの地名から公園の名前が名付けられたそうです。

■2:江戸時代からの歴史が大切に守られています

喰違から弁慶濠をみた景色。反対側には真田濠があります。
高台にある喰違見附から「弁慶濠」を見た景色。反対側には「真田濠」がある。真田濠」は戦後に埋め立てられて現在はグラウンドに。

江戸城には、内郭と外郭から形成される二重構造の城郭がありました。その外郭を取り巻く堀を「外堀」といいます。紀尾井町は江戸城外郭門の四谷門から赤坂門の間にあり、この両門の間に「喰違見附」がありました。この辺りの外堀の土手斜面には、武蔵野を思わせる珍しい植物が生息していて、樹齢200年を超える巨樹もあるようです。「喰違見附」がある辺りは、江戸城の城門によくある強固な石垣を巡らせた形ではなく、土塁を前後に張り出して道をジグザクにさせ、敵からの直進を阻む形状です。戦国期以来の古い形態の虎口(城の出入口)の構造でした。今でもその土塁が良好に保存され、紀尾井町と港区の元赤坂を結んでいます。紀尾井町周辺は、江戸時代初期から現在までほとんど地形や区画が変わっていないので、江戸城築城の歴史を感じながら散策ができる貴重なエリアです。

■3:赤坂見附や永田町が徒歩圏内です

紀尾井町通り
「紀尾井町通り」の写真。正面の通りが「新宿通り」で四ツ谷駅前を東西へ伸びている。左手には上智大学15号館がある。

永田町駅から新宿駅までは地下鉄で約20分程度、東京駅までも13分程度、そして渋谷駅までは10分程度とどこに行くにも抜群に交通の便がよい立地が魅力的です。そのほかにも、紀尾井町からは永田町駅のほかに赤坂見附駅、四ツ谷駅、そして麹町駅の合計4駅が徒歩圏内。銀座や六本木までも車で約15分程度です。

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紀尾井町はオフィス街の印象が強く、住環境はどこにあるのだろうと思いながら散策をしていましたが、「東京ガーデンテラス紀尾井町」内にはマンションがあり、スーパーマーケットや薬局もあり、静かな住環境が整っている暮らしやすそうなエリアだと感じました。江戸城築城の歴史を感じながら外堀を散策してみるのもおすすめです。

参考:千代田区ホームページ
   上智大学ホームページ
   東京ガーデンテラス紀尾井町ホームページ
     ホテルニューオータニホームページ
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PHOTO :
AC,柳堀栄子
WRITING :
柳堀栄子