「紫式部」と「清少納言」。もちろん知っているけれど、どっちが『源氏物語』を書いてどっちが『枕草子』だった? と聞かれると急に混乱してしまったりはしませんか? そしてこのふたり、年齢や身分はどちらが上なのか…。話題の大河ドラマ『光る君へ』(NHK)を見ていると、自分の知識があいまいになったり、ふたりの関係性が気になったり。ということで、今回はビジネス雑談に役立つトピックスとして「紫式部」と「清少納言」にフォーカス。押さえておきたい「基礎知識」や彼女たちにまつわる雑学をご紹介します。

【目次】

彰子以前には前例がありませんでした。
「紫式部日記」の作者は当然すぐわかるんですけどね…。

「紫式部」とはどんな人?「作品」は?

■「どんな人」?  

紫式部とは、平安中期を代表する文学者のこと。私たちにとって「紫式部」という名前はおなじみですが、平安時代、女性の名前はほとんど記録に残っていないため、多くは男性の家族の名前や家族の官職(職業)を使って呼ばれていました。彼女の場合、「紫式部」という名前は父親の藤原為時(ためとき)の職業が「前式部丞(さきのしきぶのじょう)」が由来します。「前」は「前の」という意味。「式部」とは儀式や文官関係の役所。現在の文部科学省のようなものでしょうか。そこの「丞(三等官)」、つまり式部省の三等官をしていたのです。「紫式部」の「式部」は「式部省」の「式部」なのです。そして最初は、苗字が「藤原」なので「藤式部」と呼ばれていましたが、のちに著書『源氏物語』の登場人物・紫の上にあやかり「紫式部」と呼ばれてたといわれています(諸説あります)。

■いつごろ活躍したの?

「紫式部」が生まれたのは973(天延元)年ごろ、亡くなったのは1014(長和3)年、といわれています(諸説あり)。引き算すると、42歳ごろ亡くなったということになります。夫は藤原宣孝(のぶたか)ですが、彼は紫式部が29歳のころに亡くなってしまいます。大河ドラマ『光る君へ』では佐々木蔵之介さんが演じていますね。27話では、まひろが「殿のくせ」として「お酒を飲んで眠るとときどき、息が止まる」と記していました。SNSではこのシーンが「睡眠時無呼吸症候群では?」「宣孝に死亡フラグか?」と話題になりました。そして、紫式部は夫を失った悲しみから抜け出すために『源氏物語』を書いたといわれています。1006(寛弘3年)ごろから、藤原道長の娘で一条天皇の中宮である彰子(しょうし)に女房として仕えました。34歳のころ、ということになりますね。

■「作品」

「紫式部」の作品は『源氏物語』が有名ですが、『紫式部日記』を著したほか、『後拾遺 (ごしゅうい) 和歌集』以下の勅撰 (ちょくせん) 集に60首近い歌が掲載される歌人でもありました。『源氏物語』には、実に795首もの和歌が含まれており、それらは登場人物のパーソナリティーをうまく表現しつつ、見事に書き分けられています。


「清少納言」とはどんな人?「作品」は?

■「どんな人」?

「清少納言」は平安中期を代表する歌人・随筆家で、今で言うエッセイストとして知られています。「清少納言」の父親は清原元輔(きよはらのもとすけ)という優れた歌人で、『後撰和歌集』の選者のひとり。「清少納言」の「清」は父の名前である「清原」からきていますが、「少納言」は明らかになっていませんが清少納言が仕えた中宮・定子が付けたともいわれています。

■いつごろ活躍した人?

「清少納言」の生年は966(康保3)年ごろ、亡くなったのは1025(万寿2)年といわれています。60歳くらいですね。10代半ばで橘則光(たちばなののりみつ)という人と結婚しましたが、10年程度で離婚。993年に27~28歳くらいから、藤原道隆の娘で一条天皇の中宮である定子に仕えました。1000(長保2)年に定子が亡くなると宮中を去り、晩年は恵まれない生活を送ったとも伝えられています。事実ではなかったことを願いたいですね…。

■「作品」

清少納言の著書『枕草子』は、日本におけるエッセイの先駆けといわれています。「春はあけぼの」と体言止めの文章で始まるこの作品は、平安の人たちにとっても、あっと驚くような新しいスタイルでした。この中に書かれているのは、定子に仕えた993年から1000年までの出来事ですが、ここには定子の父・道隆の死や、兄の藤原伊周(これちか)と弟の隆家が排斥された「長徳の変」、そして定子の出家など、度重なる不幸な出来事については何も書かれていません。不遇な身の上である定子を慰めるために、清少納言はきらきらと輝いていた定子との思い出だけを記したといわれています。そのため、私たちが『枕草子』から読み取れるのは、明るく理知的で洒脱な美しい后(きさき)、定子の姿だけ。今で言うところの「陽キャでパリピ風」な清少納言のイメージも、ここから生まれたといえるでしょう。


「紫式部」と「清少納言」はどちらが上?

■「年齢」は?

年齢は清少納言が10歳近く上と考えられています。

平安の女流文学者には、このふたりのおかに『蜻蛉(かげろう)日記』を書いた藤原道綱母(みちつなのはは)、『栄華物語』と『出羽弁(でわのべん:詳細は不明)』の赤染衛門(あかぞめえもん)、『和泉式部日記』を書いた和泉式部、『更級日記』の菅原孝標女(たかすえのむすめ)が有名ですね。年齢は上から、藤原道綱母、赤染衛門、清少納言、紫式部、和泉式部、菅原孝標女とされています。

■「位(くらい)」は?

「紫式部」と「清少納言」、どちらの地位が上なのでしょうか。ふたりの呼び名の元となった役職で比べてみましょう。紫式部の「式部丞」は、「大丞」であれば「正六位下」、少丞は「従六位上」相当。一方で清少納言の「少納言」は「従五位した」のため、少納言のほうが上、ということになります。とはいえ、清少納言の清原氏が代々従五位の受領クラス(下級役人)の家柄なのに対して、紫式部の家系は、そのときは受領とはいえ、元は今をときめく藤原道長一族と同じ藤原北家の流れをくむ家柄。曽祖父は中納言(従三位=公卿、国政の高官)となった藤原兼輔ですから、家柄としては紫式部のほうが上と言えそう。清少納言と紫式部、本人たちはどうかというと、后妃に仕える女房は私的に雇われた身のため、位はありません。

ちなみに紫式部の娘は、歌人・大弐三位(だいにのさんみ)としても知られています。大弐は夫の役職(太宰大弐)ですが、彼女自身も後冷泉天皇の乳母(めのと)として従三位まで出世したそうです。乳母は天皇に仕えた「女官(公的な官人)」のため、本名も藤原賢子(かたこ・けんし)であることがわかっています。大河ドラマで紫式部は「まひろ」と呼ばれていますが、これは大河ドラマ『光る君へ』のなかだけの名前。でも娘の名前「賢子」は本名が使われています。


【ふたりがライバル関係にあったといわれる理由は?】

■一条天皇をめぐる后のバトルが反映された?

ふたりがそれぞれ『枕草子』と『源氏物語」を書いたのは、平安中期と呼ばれる時代。誰もが認める平安文学を代表する二大女流文学者と言えるでしょう。しかもふたりとも、中宮定子(のちに皇后)と中宮彰子に、それぞれ仕えていた女房でした。定子と彰子は、どちらも一条天皇の「后(きさき)」です。天皇には跡継ぎが必要ですが、当時は子どもが生まれても無事成長するとは限りません。だから元気な男の子を得るために、たくさんの后妃がいたのです。后妃たちは、誰が天皇から大きな寵愛を受けるかを巡って戦う、いわばライバル同士。そのため、后に仕える清少納言と紫式部も、ライバル同士と見なされたのでしょう。実際には、紫式部が女房になるのは、清少納言が宮中を去ってからだったため、直接のバトルを繰り広げたわけではありません。

■性格も正反対?なふたり

著書の文体や、さまざまな文献を探ると、どうやらふたりはかなり性格の違う女性同士だったようです。清少納言はテキパキとした陽キャタイプ。対して、紫式部はじっくり物事を進めたい、引っ込み思案な陰キャタイプ。それでいてどちらも才女として名高く、漢詩の素養もありましたから、インテリ女子同士、ライバルという構図は自然な流れとも言えるでしょう。


【ふたりにまつわる「雑学」】

■ふたりの職業である「女房」って?

「女房(にょぼう)」といっても、今で言う「妻」のことではありませんよ。「女房」とは貴人に仕えた女性、「宮仕え(みやづかえ)」した女性のこと。天皇に仕える女房は「女官(にょかん)」と言い、ほかの女房とは区別されていました。現代の感覚では、使用人というと身分が低い者をイメージしがちですが、貴人のそばで仕えることができるのは、貴族の女性のみ。自身が姫であり使用人を抱え、教育や教養のある女性が、より高貴な女性に仕えると「女房」と呼ばれたのです。宮中では后妃たちの身の回りの世話のほかに、話し相手や教育係、后妃を訪れる男性貴族の対応もしました。住み込みで働くことが基本です。女性が人前に出る機会は少なかった時代、外で働く女性は珍しい存在でしたが、顔や姿を人目にさらすことから「貴婦人」とは見られにくく、また「仕える」が性的な意味合いも含む時代だったため、ある意味蔑視もされる存在だったようです。

■ふたりは会ったことある?

紫式部と清少納言は、それぞれ一条天皇の「后(きさき)」である定子と彰子に仕えていたため、何かと比較されることが多いですが、顔を合わせたことはなかったと考えられます。なぜなら清少納言が仕えた定子は1000(長保2)年12月に亡くなっており、紫式部が宮中で務めたのが1006(寛弘3)年ごろから1011(寛弘8)年ごろ。清少納言はすでに宮中から去って久しかったため、直接会った可能性はなさそうです。

■『紫式部日記』はけっこう辛口ってほんと?

『紫式部日記』には清少納言や和泉式部について、辛辣な批判が記されています。特に清少納言については、「知ったかぶりでとんでもない人」「利口そうに漢字なんて書き散らしているけど、よく見ると足りないところだらけ」。さらに定子の死後、清少納言が落ちぶれて各地を転々としたという説(うわさ)について、「チャラチャラしている人の将来がよいわけがない」とまで書いています。ここまでけなすのは、もはやジェラシーのなせるわざ。清少納言の著書から伝わる天性の明るさや美しさ、そして裏に潜む切なさを、実は誰よりも理解していたのは紫式部だったのかもしれません。また、和泉式部に対しては、「歌は非常に上手」と言いつつも、感心できないところがあって、「引け目を感じるほどの歌人ではない」と評しています。「感心できないところ」というのは、和泉式部が恋多き女性で社会的に見て道徳的ではない、ということが言いたかったようです。とはいえ、恋愛の喜びや苦しみをエネルギーとして歌や日記を書いた和泉式部に対しても、お堅いタイプだった紫式部のジェラシーがなんとなく感じられますね。少なくとも紫式部が『枕草子』や『和泉式部日記』をかなり読み込んでいたのは事実です。

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紫式部と清少納言に直接の面識はありませんでしたが、少なくとも紫式部が清少納言をライバルとして意識していたのは確かなようです。紫式部が中宮・彰子に仕えることになったのは、定子が亡くなってから5、6年が経っていたころですが、一条天皇の心の中には定子の面影が消えずに残っていることを、紫式部も感じとっていたに違いありません。当時、彰子は18歳くらい。紫式部は彰子に女房として仕える以前から『源氏物語』の執筆を始めており、一条天皇もすでに読んでいたとされています。紫式部が彰子のもとで期待された役割は、物語好きな一条天皇が『源氏物語』の続きを読むために彰子のもとへ頻繁に通い、結果として皇子を懐妊する日を近づけるということでもあったのです。

この記事の執筆者
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参考資料:NHK大河ドラマ・ガイド『光る君へ 前編』(NHK出版)/NHK大河ドラマ・ガイド『光る君へ 後編』(NHK出版) /『平安 もの こと ひと 事典』(朝日新聞出版)/『平安女子の楽しい!生活』(岩波ジュニア新書) /『平安のステキな!女性作家たち』(岩波ジュニア新書) /『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書) :