今回のテーマは「東宮」。現在、皇位継承順位一位の秋篠宮さまは皇嗣(こうし)の立場になられ、東宮は空位となっていますが、今上天皇が皇太子だったとき住まわれていた「東宮御所」という言葉には、なじみがあるのではないでしょうか。人気のNHK大河ドラマ『光る君へ』に登場するエピソードも交えて解説します!
【目次】
【「東宮」とは?「読み方」「意味」】
■「読み方」
「東宮」は「とうぐう」と読みます。
■「意味」
東宮とは、京都御所の内裏の東側にあった皇太子の居所のこと。転じて「皇太子」、つまり、次の天皇の呼称となりました。古代の日本では、東西南北(方角)はそれぞれ、四季や色と結びついており、「東」は、四季に配すれば「春」、色では「青」にあたるため、皇太子は「春宮 (とうぐう/はるのみや)」 「青宮 (せいきゅう)」 、さらに、皇位継承者の意味合いから、「儲君 (ちょくん)」 、「ひつぎのみこ」、「もうけのきみ」などとも称されました。
【大河ドラマでも描かれた「一条天皇期の東宮」は誰?】
■一条天皇の御代、「東宮」は 年長の居貞親王
一条天皇の時代、「東宮」は、冷泉天皇の第2皇子である居貞(おきさだ / いやさだ)親王です。
一条天皇(懐仁親王)は986(寛和2)年に、7歳で即位しましたが、そのとき東宮となった居貞親王は11歳。天皇より4歳年上の東宮でした。実は東宮が天皇より年長というのは、当時としても異例なこと。居貞親王が一条天皇の譲位を受け、三条天皇として即位したのは1011(寛弘8)年ですから、居貞親王は実に25年にも及ぶ、長い皇太子時代を送ったことになります。11歳で東宮になってから、すでに36歳になっていました。なぜ、天皇より年長の「東宮」が立てられたのでしょうか。次にその背景について、ご説明しましょう。
■当時の「皇位継承権」はどうなっていたの?
少々、話が込み入っていますが、大河ドラマ『光る君へ』の配役を思い出しつつ、頭を整理してくださいね。
居貞親王の父・冷泉天皇は、969(安和2)年に、同母弟の円融天皇(ドラマでは坂東巳之助さん)に譲位し、皇太子には、冷泉天皇の第1皇子で、居貞親王の異母兄である師貞親王(ドラマでは本郷奏多さん)が立てられました。以後、皇統は「冷泉系」と「円融系」に分かれ、交互に天皇位を継いでいくこととなります。
円融天皇が984(永観2)年に譲位した際には、冷泉天皇の皇子で東宮である師貞親王が17歳で花山天皇となり、次の東宮には、円融天皇と藤原詮子(藤原兼家の娘。ドラマでは吉田羊さん)の間に生まれた第1皇子懐仁(やすひと)親王(ドラマでは塩野瑛久さん)が立てられます。そして986(永観4)年、花山天皇の譲位で懐仁親王が一条天皇として即位した際に、冷泉天皇の第2皇子である居貞親王(ドラマでは木村達成さん)が東宮となったのです。これが、天皇より年長の「東宮」が立てられた経緯です。
このように、「冷泉系」と「円融系」が交互に天皇位を継いでいくのが慣例となっていたため、一条天皇(円融系)の譲位を受け、居貞親王が三条天皇(冷泉系)として即位した場合、空位となる東宮に即位するのは、「円融系」の皇子となるのが自然な流れだったのです。
■道長の思惑は?次の「東宮」は誰に?
当時、宮廷の権力を掌握していた藤原道長は、自らの権力をさらに盤石にするためには、娘を天皇の后にして皇子を生ませ、それが東宮となり天皇となって、自分は天皇の外戚(祖父)となることが必須であると考えていました。一条天皇の跡を継ぎ、居貞親王が三条天皇(冷泉系)として即位すると、東宮の地位が空くため、新たな東宮(円融系)を立てなければなりません。
一条天皇には兄弟はなく、3人の皇子がいました。定子(道長の姪。ドラマでは高畑充希さん)が産んだ敦康(あつやす)親王が第1皇子で、このとき13歳。
第2皇子は道長の娘・彰子(ドラマでは見上愛さん)が産んだ敦成(あつひら)親王、数えで4歳。そして翌年生まれた敦良(あつなが)親王、3歳でした。
当時は、中宮(もしくは皇后)が産んだ第1皇子が東宮となり、やがて天皇に即位するのが通例でした。病気で第1皇子が亡くなってしまった場合を除き、中宮が産んだ第1皇子が東宮になれなかったことは、平安時代を通じて一度もなかったのです。
そうした流れからすると、次の東宮には定子が産んだ敦康親王がなってしかるべき。ところが道長は、自分の娘が産んだ敦成親王をなんとしてでも東宮にしたいと考えていました。さらに敦成親王が天皇に即位した暁には、次の東宮に敦成の弟である敦良を東宮に、とも思っていたはずです。それが実現すれば、道長は天皇と東宮、両方の外祖父になり、藤原家は将来にわたり政権を手放さずに済むからです。
しかし、一条天皇は敦康親王を東宮にしたがっていました。また、平安時代後期の貴族の歴史を物語風に綴っている『栄華物語』には、敦康親王をわが子のように育てていた彰子も、敦康親王を東宮に望んでいたと書かれています。にもかかわらず、道長の意を汲んだ藤原行成の説得も功を奏し、東宮には敦成親王が選ばれます。行成をはじめ、ほかの貴族たちも、権力を握る道長の孫が東宮となったほうが、政(まつりごと)は安定すると考えていたのです。ドラマでは歌舞伎界のプリンス・片岡千之助さんが、悲劇的な運命を辿る敦康親王を、どこか物憂げに、雅に演じています。
【「東宮」にまつわる雑学】
■「東宮」と「皇太子」 どこが違う?
「東宮」と「皇太子」は、どちらも「皇位を継承するべき皇子」を表し、同じ意味の言葉です。使い分けとしては、人物をさす場合には「皇太子」が一般的。「東宮」は、現在は「東宮御所」など、もともとの「皇太子が住む場所」という意味で使われることが多いです。
■「東宮」は、なぜ「東」?
そもそも「東宮」とは、「内裏(だいり。天皇の住まい)から見て東に位置する宮」という意味です。先にも述べた通り、東は五行説では春に配され、万物生成、若さなどの意味をもっています。また易経(古代中国の書物で五経のひとつ)では東を「長男」とすることから、「皇位を継承するべき皇子」の住居を「内裏の東」に配したことに由来します。
■自分の孫(敦成親王)を「東宮」にした道長の選択は失敗だった?
一条天皇の第1皇子でありながら「東宮」になれなかった敦康親王は、三条天皇即位の7年後、1018(寛仁2)年に、20歳の若さで亡くなってしまいます。そしてその後、敦康は怨霊となって、道長の一族を苦しめたといわれ、藤原実資(さねすけ)が書いた『小右記(しょうゆうき)』には、後一条天皇(敦成親王)が病気になったとき、敦康の霊が現れたと記されています。
また、道長自身の運勢も、敦成を即位させた以降は、徐々に下り坂に。多くの子に先立たれただけでなく、長男(頼道)にはなかなか娘が生まれなかったため天皇家に入内させることができず、さらには長男の養女や五男の娘を入内させても、ついに皇子を産むことは叶いませんでした。その結果、藤原一族の栄華はあっけなく終焉を迎えることになるのです。
もちろん、このような不運を敦康の怨霊と結びつけるのは、現代の感覚ではナンセンスですが、当時は呪詛や怨霊の存在が信じられていた時代。道長は「敦康が早くに亡くなることがわかっていれば、迷わず東宮にしたのに」と、後悔したのではないでしょうか。
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ドラマでは、見上愛さん演じる中宮彰子が、自分になんの相談もせず、敦成親王を半ば強引に東宮に据えた道長に対し、怒りをあわらにするシーンが描かれていました。定子が亡くなったのち、幼い敦康を手元に引き取り、わが子のように育てていた彰子にとっては、敦康も敦成も、愛しく大切な存在だったのでしょう。
藤原行成は自身の日記『権記』に、「彰子は父を恨んだ」と記しています。一条天皇を最期まで看取った彰子は、伴侶を失った悲しみを、「見るままに 露ぞこぼるるおくれにし 心も知らぬ撫子の花(父に死に別れた悲しみもわからず、無心に撫子の花を手に持っている愛しいわが子の姿を見るにつけ、涙がこぼれます)」と詠みました。その後、敦成親王が後一条天皇に、敦良親王が後朱雀天皇となり、彰子は60年余りの間、「国母(天皇の母)」として政治手腕を振ることになります。
同時の文献で「賢后」と讃えられている彼女は、聡明で美しく、慈愛に満ちた女性だったのでしょう。そして、その彰子の成長に、紫式部が大きく関わっていたとは…! ドラマではどう描かれていくのか、こののちの展開がますます楽しみです。
- TEXT :
- Precious.jp編集部
- 参考資料:『日本国語大辞典』(小学館) /『デジタル大辞泉』(小学館) /『日本大百科全書 ニッポニカ』(小学館) /『使い方の分かる 類語例解辞典』(小学館) /『平安 もの こと ひと 事典』(朝日新聞出版) /『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』(NHK出版新書) /『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書) :