【目次】
【前回のあらすじ】
前々回の『べらぼう』第27回 「願わくば花の下にて春死なん」は、江戸城で田沼意知(宮沢氷魚さん)が佐野政言(矢本悠馬さん)に斬りつけられるという衝撃のシーンで幕を閉じました。そして続く第28回は、幸せそうに意知との未来を語る、かをり(誰袖花魁の幼名/福原遥さん)と、深手を負って畳をはう意知のうめき声から始まります。なんという残酷な展開でしょう!

やがて、意知は父・意次(渡辺謙さん)の看病の甲斐なく絶命。政言は切腹となりました。後日、江戸市中では、意知の葬列に向かって次々と石を投げ込む人々の姿が。さらに、大坂で集めた米を江戸に急送して安値で払い下げるなど、意知提案の政策により米の価格が下がり始めると、人々は「政言が意知を斬ったおかげで安い米が出回った」と噂し、政言を「佐野さま」と崇め始めるのでした。
いつの世も、庶民にとっては目先の生活が第一。ましてや未曾有の飢饉によって飢えに直面する人々が、怪しい陰謀論を信じてしまうのは、仕方のないことかもしれません。厳しい現実を前に、「これほど、人々は苦しい生活を強いられているのだ。それはよくわかる。でもだからといって、真実(意知の志や功績)が人々に伝わらないのが、よいことだとも思えない」。こう考えられる蔦重は、やはり卓越したバランス感覚の持ち主ですね。
「(意知の)仇(かたき)を討っておくんなんし!」とかをりに乞われ、必死に考える蔦重ですが、死人を相手に仇を討つ方法は、なかなか思いつくものではありません。そんなある日、政言の墓がある寺に「佐野世直し大明神」と書かれた幟(のぼり)を立てている浪人(矢野聖人さん)の姿が…なんとその浪人は、意知の葬列に最初に石を投げた大工と同一人物だったのです。あまりにも怪しすぎますが…皆さんはもうおわかりですよね⁉ この人物こそが、政言の耳に意知についての悪質な嘘を吹き込んだ男であり、第16回で平賀源内(安田顕さん)に阿片(とおぼしきもの)を勧め、源内を殺人犯に仕立て上げた男(クレジットには「丈右衛門と呼ばれた男」とありましたね)だったのです!
蔦重の脳裏に浮かんだのは、「源内先生のときと同じじゃないか?」という思い。意次を訪ね「裏で糸を引いている者がいるのでは?」と訴えますが、真相に近づくことで蔦重の身に危険が迫ることを警戒した意次は、「意知が斬られたのは、俺のせがれだったからだ。ならば、仇は俺だ!」と、いらだった風を装い蔦重を追い返します。
「ことの起こりは蝦夷だ」。一連の陰謀の目的は、蝦夷地を天領(幕府の直轄領)とすることを阻止し、田沼家の力を削ぐこと。すべての陰謀は一橋治済(生田斗真さん)によるものと、意次は確信したに違いありません。
さてここで、ひとつ、大きな疑問が湧いてきました。意次の側近である三浦庄司(原田泰造さん)は、どうして蔦重の語る怪しい男が「丈右衛門」だとわかったのでしょうか? 実はSNSでは以前から、「田沼家には一橋治済への内通者がいるのでは?」という声が上がっていました。「まさか三浦が?」。真相やいかに!
意知の死後、かをり(誰袖)は土山宗次郎の屋敷の離れに籠もり、政言やその親兄弟に対する呪詛を行っていました。大河ドラマファンにとっては『鎌倉殿の13人』『光る君へ』に続き、ある意味、お馴染みのシーンですが(笑)、その様子はまるで何かに取り憑かれたよう。蔦重と大文字屋の遣り手・しげ(山村紅葉さん)が止めても耳を貸しません。
かをりの変貌に「あいつはずっと笑っていたはずだ」とやるせない思いを抱く蔦重ですが、そんな折、意次からの文が届きます。俺は自分のやり方で仇を討つから、お前がどんな風に仇を討つのか、そのうち聞かせてくれ」こう意次は言うのです。
実はこの文を書く前、意次は意知の遺髪を胸元に、城内に上がっていました。すれ違いざまに挑発を仕掛ける治済に「あやつはもう二度と、毒にも刃にも倒せぬ者となったのでございます」と返す意次。「志は無敵にございます。己の体を失っても生き続ける」。因縁のライバルふたりによる、静かで熱い宣戦布告は迫力十分。これから本当の戦いが始まります!
一方、本屋の自分ができる、自分なりの仇討ちとは何だろう…? と思案する蔦重のもとへ、「つったじゅうさ〜ん」と、北尾政演(山東京伝/古川雄大さん)が暖簾をくぐってやってきました! SNSではこのシーンが、「手拭合(たなぐいあわせ)」のイラストに対するオマージュなのでは? と話題に。「手拭合って?」。その解説はまた次回。果たして蔦重は新たな企画で、かをりを笑顔にすることができるのでしょうか⁉
【江戸庶民の食卓は?】
■お米の消費量は「1日5合」!
それにしても、ここ最近の『べらぼう』は、食事のシーンが多いと思いませんか? 当時の奉公人は基本的に住み込みで、食事はすべて店が賄うのが慣わし。日本橋の大店の主となった蔦重も、飢饉による米の値の暴騰には頭を悩ませていたはずですが…蔦重はもちろん、奉公人たちが手にするお茶碗は、ご飯が山盛り。そしておかずはお世辞にも豪華とは言えません。あれで体力がもつのでしょうか?
実は江戸時代の人々は、おかずが少ないぶん、驚くほどたくさんのお米を食べていました。その量は、成人男子で1日約5合! 必要なカロリーのほとんどを、米から取っていたのです。江戸時代中期以降は1日3食の家が多く、1度の食事で1.5合強、つまり大ぶりのお茶碗3杯分を食べていたということになります。お米1合は150gなので、1日で750g。つまり、男性ひとりで、5㎏のお米を1週間で食べ切ってしまうという計算です!
江戸風俗研究家である杉浦日向子さんの対談集『杉浦日向子の江戸塾』によれば、[1人前の米=1.5合]ということから、1人前でない人に対して「この一合野郎が!」という罵(ののし)り言葉もあったそうですよ。
ご飯を炊くのは一日一回、朝だけだったので、温かいご飯を食べられるのは朝だけ。朝ご飯は漬物と、2種類以上の具が入った御味御汁(おみおつけ)と呼ばれる味噌汁が付いた「一汁一菜」が基本でした。味噌にねぎとだし汁数種が練り込まれ、1食ずつボール状に丸めた、インスタント味噌汁もあったそうです。
メニューがいちばん豪華なのは昼で、冷や飯に焼き魚や野菜などのおかずがつきました。夜はたいてい早く寝てしまいますから、お茶漬けでさらっと済ませます。おかずはお惣菜屋で買ってきたり、独身男性のなかには3食すべてを屋台で立ち食い、という人もいたようです。屋台の種類は、鮨に天ぷら、そばと鰻。この4つは「江戸前の四天王」と呼ばれていました。
■白米を食べていたのは江戸っ子だけ
江戸は将軍のお膝元であり、全国から年貢米などが集まっていました。米の流通システムが整備され、搗屋(つきや/精米屋)もあったため、江戸っ子だけが、お米、それも白米を食べられたのです。これは江戸っ子の自慢のひとつではありましたが、皆さんもご承知の通り、白米よりも玄米のほうが栄養価は豊富なんですよね…おかずの種類が少ないことも手伝って、江戸にはビタミンB1の不足が原因となる「脚気(かっけ)」が多かったのです。そのため、脚気は「江戸患い」「江戸病(やみ)」とも呼ばれました。
蔦重たちが山盛りご飯を豪快にいただく食事風景は、ここから10数年後に起こる悲しい出来事への伏線です。覚えておいてくださいね。
【次回 『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第29回「江戸生蔦屋仇討(えどうまれつたやのあだうち)」のあらすじ】
蔦重(横浜流星さん)は政演(古川雄大さん)が持ち込んだ“手拭いの男”の絵を使った黄表紙を作りたいと戯作者や絵師たちに提案する。そこに鶴屋(風間俊介さん)が現れ、大当たりを出すなら、京伝先生(古川雄大さん)を貸すと申し出る。政演は草稿を考え始めるが…。一方、意次(渡辺謙さん)は、東作(木村了さん)が手に入れた松前家の裏の勘定帳によって、蝦夷地で松前家が公儀に秘密裏で財を蓄えていた証拠を掴み、上知を願い出る準備を始める。

※『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第28回 「佐野世直大明神」のNHKプラス配信期間は2025年8月3日(日)午後8:44までです。
- TEXT :
- Precious編集部
- WRITING :
- 河西真紀
- 参考資料:『NHK大河ドラマ・ガイド べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~ 後編』(NHK出版)/『日本国語大辞典』(小学館)/『杉浦日向子の江戸塾』(PHP出版)/『これ一冊でわかる! 蔦屋重三郎と江戸文化』(Gakken) :