看板の無い秘密のバー「ラスプーチン」
フィレンツェのアルノ川左岸、サント・スピリト地区某所にあるバー「ラスプーチン」もそんな1件だが、実はこのバー看板がなく少々わかりづらい。しかしその噂は口コミで徐々に広がり、現在は予約必須の人気バーとなっている。
ある日実際に訪れてみたところ確かに看板は無く、奥からかすかに灯りの漏れる鉄の扉があるのみ。果たしてここでいいのだろうか?と内心ドキドキしつつ呼び鈴を押してみると、やがて「ラスプーチンへようこそ」とスタッフが現れた。
重い扉を押して入ると今度は礼拝室のような薄暗い小部屋があり、壁には十字架のキリスト像がかかっている。スタッフに先導されて地下へと続く石造りの階段を下りてゆくと、右手には重厚なバーカウンター、左手には重厚なソファ席がある広い空間にたどりついた。ここが「ラスプーチン」だ。
オーナー・バーテンダーのダニエレ・カンチェッラーラ氏は2016年3月に「ラスプーチン」を開店。ラスプーチンとは19世紀末から20世紀初頭にかけ、帝政ロシアの時代に活躍したロシアの怪僧と呼ばれた人物だ。「ラスプーチンが生きた時代、イギリスはヴィクトリア朝でしたがロンドンはじめ世界の正統派バーの多くはヴィクトリア朝スタイルの重厚なインテリアです。わたしにとってラスプーチンとは古き良き時代の象徴でもあるのです。」とダニエレ氏はいう。
「ラスプーチン」はオリジナル・カクテルを飲みながら静かに語らう場なので料理は一切なく、ダニエレ氏考案のオリジナル・カクテルとシャンパン、スプマンテ、そしてウイスキーのみ。カクテルは「傲慢」「淫蕩」「虚栄心」などキリスト教における7つの大罪がテーマとなっており、それぞれ個性的なタイトルのカクテルが7つのテーマごとに4種類づつ計28種類。メニューには使用しているスピリッツやリキュール、材料が全て明記されているので眺めているだけでも非常に楽しい。
眺めているだけでも楽しい個性的なカクテル
まずダニエレ氏が作ってくれたのがイタリア産の材料を使った「ゼーノの意識 La Coscenza di Zeno」。カクテル名はイタリアの作家イタロ・ズヴェーヴォの同名の小説から名付けられたものだ。南イタリア、カラブリア産のジン「Gil Peated」に桃の葉から作るリキュール「Percichetto Essentiae」そして同じくイタリア産竜胆のエッセンスを加えた、香り高く、ややビターで辛口のカクテル。秘密のバーは実はフレンドリーで、いろいろ興味深いカクテルを勧めてくれる。
「クラナカン Cranachan」はスコットランド伝統のデザートをイメージし、ジンベースにエリカの蜂蜜とアイラ島のキルホーマン・ブランブレ・リキュール、そしてフランボワーズのスプーマをトッピング、見た目もデザートのクラナカンそっくりに仕上げたカクテル。トッピングのスプーマは甘酸っぱくて滑らか、その下にはアイラ島特有のピーティかつスモーキーなフレーバーが遠いスコットランドを連想させた。甘口の外観だけでは分からない、実は個性的でパンチの効いた一杯。
日本酒カクテルが人気
ダニエレ氏が「日本酒カクテルはいかがでしょう」と作ってくれたのが「トーキョー・ブルース TOKYO BLUES」。これは村上春樹の小説「ノルウェイの森」のイタリア語版タイトルで、イタリアで最も読まれている日本の小説だ。レモンと若草のような香りだが味わいはほのかにビターテイスト。Hayman’s London Dry Ginをベースに安芸虎純米吟醸、煎茶シロップ、ミントとフェンネルから作るストレーガという南イタリアのリキュール、そしてラベンダー・ビター。日本酒の吟醸香はイタリアのヴェルモット同様、カクテルの香りづけに使うととても奥行きが出るとのことだが、確かに吟醸酒はジンやハーブと非常に相性がいい。聞けば数あるオリジナル・カクテルの中で「トーキョー・ブルース」が一番だという。
ヴェルモットやアマーロ、グラッパなどワイン以外にもイタリアを代表するアルコールは数多いが、そうした食材を自由な発想で組み合わせるイタリア式ミクロソジーはとても面白い。
もともとイタリアという国は野菜や果物など食材の宝庫だけに新たなカクテルの可能性は料理同様無限に近いのではないだろうか。最新のイタリア式カクテルを試してみたいなら、一度「ラスプーチン」の扉を押してみることをおすすめしたい。ただ、看板がないので少々わかりにくくはあるけれど、無事辿り着くことができたらそこには未だ見ぬ新しいカクテルの世界が広がっているのだから。
場所:非公開
- TEXT :
- 池田匡克 フォトジャーナリスト