【第5話】破滅のムスク

出会った時点で、
この後に起きる愛のすべては、
語り尽くされているかのようだった。
恐らくは、
その自信に満ち、複雑に制御された
高貴なムスクの香りによって。
この愛は、惜しみなく、
私を奪うことだろう
と感じる。
焦土の甘い香りといった
幻惑的な言葉が、
胸を過った。
日常の中に、
ひとつの破滅を迎え入れるようにして、
彼との愛の生活を想像した。
けれども、
そこからきっと始まるのだった。
今とはまったく違った、
新しい何かが……。

(文/平野啓一郎・小説家)


化学者から転身し独自のスタイルを確立した調香師モーリス・ルーセルの香水

フレデリック マル『ムスク ラバジュール』

調香師モーリス・ルーセルによる作品。ムスクやアンバーなど癖のある香りを綿密なメソドロジーを駆使し表現。100ml ¥30,000(フレデリック マル)※税抜価格

 20年くらい愛用している香りがあります。つけていないと何か物足りない、出かけるときに靴を履くのと同じくらい僕に馴染んだ香り。使い切ったそのオードトワレの瓶は捨てずにいます。1本だけ割ってしまいましたが、一生のうちに何本使うのかなって。

 気にいった香りがあると、人生を多少助けてくれる気がするんです。僕が同じものを使い続けているのは、その香りを好きだという人が多いというのもあります。サイン会なんかの後に、「平野さんいい香りがしました」と書かれたりとか(笑)。香りはライフスタイルやアイデンティティと強く結びついているから、自分が好きなだけでなく、好印象をもたれ、自分に似合うということが重要。見えないものだけど、服より個々を表現するものかもしれません。触れてはいないんだけれど、触れているように感じさせるものというか。そういう香りを見つけるまではいろいろ試してみる必要があると思いますけど。

 フレデリック マルは、ヨーロッパの本物のラグジュアリーとか、フランスのエレガンスとか、そういうすごく濃厚な部分、五感にアプローチするカルチャーから生まれた香りという印象です。香りがキツイのではなく、密度が高いというか。フランスで食べるお菓子が甘いだけでなく甘さ自体に味があるように、フレデリック マルにも、それぞれの個性の断面が密というか、香りの仕上げに洗練を感じる。調香師が確信をもっていることがわかります。

ファン待望の長編小説『ある男』が書籍化!

ジャケット¥438,000・ニット¥91,000・パンツ¥124,000(ベルルッティ・インフォメーション・デスク)※税抜価格
『ある男』
著=平野啓一郎 文藝春秋 ¥1,600(税抜)
1975年愛知県蒲郡市生まれ、北九州市出身。京都大学法学部在学中の1998年に文芸誌に投稿した『日蝕』により、第120回芥川賞を受賞。以降、数々の小説やエッセイを発表し続け、美術や音楽など幅広いジャンルに造詣が深い。2004年には文化庁の文化交流使として1年間パリに滞在。ベストセラー小説『マチネの終わりに』から2年、新たな代表作との呼び声も高い最新刊、『ある男』(文藝春秋)を上梓した。
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あらすじ

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。

「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!

弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から、「ある男」についての奇妙な相談を受ける。

宮崎に住んでいる里枝には、2歳の次男を脳腫瘍で失って、夫と別れた過去があった。長男を引き取って14年ぶりに故郷に戻ったあと、「大祐」と再婚して、新しく生まれた女の子と4人で幸せな家庭を築いていた。ある日突然、「大祐」は、事故で命を落とす。悲しみにうちひしがれた一家に「大祐」が全くの別人だったという衝撃の事実がもたらされる……。

里枝が頼れるのは、弁護士の城戸だけだった。

人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。
「大祐」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。
人間存在の根源と、この世界の真実に触れる文学作品。

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撮影/戸田嘉昭(パイルドライバー/静物)、宮澤正明(人物) スタイリスト/櫻井賢之
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