「平家にあらずんば人にあらず」と言ったのは、覇者・平清盛ではなかった! では、誰の言葉?

いかにも平清盛が言いそうなイメージ?

現代の日本人で知らない人はいないであろう知名度を誇る、源氏と平氏。ともに長い歴史のなかで何人もの英雄を輩出している武家ですが、今回はその後者、平氏にクローズアップしたトリビアをお伝えします。

平氏には著名な人物やエピソードといえば、思い浮かべるのは誰でしょうか? たとえば、平将門。今でも将門公の眠る「将門の首塚」はパワースポットとして注目を集めており、スマートフォンの待ち受け画像にするとご利益があるとかで、千代田区の首塚に、スピリチュアル系の女性がつめかける日もあるとか…。

あまりにも有名な名言「平家にあらずんば人にあらず」も、いかにも平氏らしい言葉として、記憶されている方も多いことと思います。

さてこの名言、口に出したのは、平家が最も隆盛を極めた時代の頭首・平清盛である!…と誤解している方、意外と多いのではないでしょうか?

平清盛といえば、2012年の大河ドラマにもなった、平氏で最も著名な人物。日本の歴史上初の武家政権を確立した知恵者であり、悪役として語られる事も多い、大胆な武将です。

荘厳で美しい広島の清盛神社

「平家にあらずんば人にあらず」…清盛ほどの人物がこう言ったなら、言っている内容がいかに尊大であろうとも「この人ならこれくらい言っても、まぁ仕方ない」と、うなづいてしまう方もいらっしゃるでしょう。この言葉は、歴史物語『平家物語』に記載されている言葉です。正確には「この一門(平家)にあらざむ人は、みな人非人なるべし」と記載がなされています。原典のまま読んでも、なかなか強烈な言葉ですよね。

しかし『平家物語』の中でこの言葉を発しているは、清盛ではなく、実は清盛の義弟にあたる「平時忠(たいらのときただ)」なのです!

「平家にあらずんば人にあらず」と言った本人は、平家が滅亡後もうまく生き延びた日和見男!

平時忠? 聞いたこと、ありませんよね。いったい、どんな人物だったのでしょうか? 歴史を紐解くと、ちょっと「あらら?」と思ってしまうような人生をたどっています。

清盛の病死後みるみる弱体化した平家が、壇ノ浦の戦いで滅亡したのは皆様の知るところですが…時忠は、なんと、平家滅亡後も生き延びているのです。

時忠は壇ノ浦の戦いで敵方の捕虜になりますが、死刑になってもおかしくないところを、平家が持ち出していた天皇家に伝わる三種の神器のひとつ・八咫鏡(やたのかがみ)を差し出し、さらに源義経に娘を嫁がせて、死刑を免れています。流刑にはなったものの、流刑先でもそこそこ丁重に扱われたようです。

また、都に残されていた時忠の家族にも、特に圧迫が加えられずに済んだよう。

山口県の壇ノ浦の合戦跡には、当時の戦いを現すモニュメントが…

家族を守るためになりふり構わなかった、と美しい見方もできなくはないですが、清盛の孫である安徳天皇が、たった6歳の幼さで壇ノ浦に没した悲劇と比べると、時忠の処世術にはどうしても「日和見」という言葉が浮かんでしまいます。

「この一門(平家)にあらざむ人は、みな人非人なるべし」とまで、のたまわっていたのに。生き延びることを最重要事項として考えること自体、非難されるようなことではありませんが、当時のよしとされていた「美学」とは、かなりかけ離れていそうなのも事実です。

『平家物語』の冒頭にも出てくる、沙羅双樹の花。

しかし「この一門(平家)にあらざむ人は、みな人非人なるべし」という言葉の解釈は、諸説あるようです。

当時は「宮中で出世できない人」を指していた、という説もあるので、「平家にあらずんば人にあらず」という名言が、日和見男が言った「平家じゃない人は、出世できないよ」という意味だったとしたら…ニュアンスが180度変わってきますよね。果たして「現代まで語り継がれるような名言かしら?」という気もしてまいります。

細かな部分については諸説ありますが、「平家にあらずんば人にあらず」という名言を発したのが、平清盛ではなく平時忠である、という部分については、『平家物語』にはっきりと残っています。

「あの清盛の名言は強烈よね」などと間違えて語ってしまわないよう、気をつけてまいりましょう!

参考文献:『名言の真実』監修:出口汪(小学館)
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