「女性が輝く社会」を女性に押し付けないでほしいのです

先日、地方に出かけて講演をする機会がありました。女性たちのチャリティグループが開いてくださったのですが、千人近くの方が来てくださり、会場は熱気と温かさが入り交じるとても素敵な雰囲気でした。

ひとしきりお話をさせてもらったあとに会場から質問を受けたのですが、そのひとつが私の心に残りました。

質問は私よりもうんと若い女性からで、「どうやったら仕事などを通じて輝けるか?」といった主旨でした。私はかねてから「女性が輝く社会」という言葉になんか違うなぁと引っかかっていました。なんで女性ばかりが「輝け」と言われるのだろうかと。普通に暮らしているだけでは「輝いていない」のだろうかと。

私はたまたまメディアに露出する仕事をしていますから、はた目にはキラキラとスポットライトを浴びて見えるかもしれませんが、それが果たして人間として「輝いている」ことではないと思うのです。

安藤優子さん
安藤優子さん

「女性が輝く社会」とはなんなのでしょうか? 今の政権が掲げるこのスローガン(これ自体がもう古いですよね)は、簡単に読み解くと「女性が働く戦力となる社会」なのです。

少子高齢化で慢性的な人手不足が深刻な日本社会は、とにかく働き手が欲しい。だから子育て中のお母さんも働けるように保育所を増やすなど、さまざまな対応がとられています。

ですが、ご存知のように十分な体制が整っているわけではありません。つまり、「女性が働くこと」=「女性が輝くこと」というあまりに単純な図式で捉えられている、もしくは意図的にそういう「言い換え」が行われているのです。

私はここに引っかかっています。働かなくては輝けないのか? 普通に暮らしているだけでは女性は輝けないのか? なぜ毎日満員電車にぎゅうぎゅう詰めになってせっせと働いているお父さんたちは「輝いていない」のか? 疑問があとからあとから湧いてきます。

誤解がないように私なりにこの問題を整理すると、女性が仕事をバリバリすること、そういう女性たちをどんどんバックアップするような社会は大歓迎です。

でも「輝け」と言われると、それは余計なお世話だと思うのです。もうみんな女性たちは頑張りすぎるくらい頑張っていて、それは仕事、家事、育児、介護とそれぞれがそれぞれの立場で精一杯やっているのです。そのうえで「輝け」などと言われれば、もうパンクしてしまいます。

「女性が輝く社会」ではなく「女性が自分を大事にできる社会」にでも、今すぐ変更していただきたいと思うのです。

冒頭でご紹介した質問をされた女性も、お仕事も頑張り、家事も育児もこなされているようでした。でもそれでも「どうやったら輝けるのだろうか」と思われたのです。私はもう十分だとお伝えしました。すでに十分輝いているのですから。

今ある目の前の事に全力で向き合うことが、それぞれの人間の輝きだと思います。そしてそれは千差万別で、個々人が思い通りの生き方をすることが許容される社会が「人間が人間らしく輝きを放てる社会」なのではないでしょうか。「女性が輝く社会」などという極めて感覚的な言葉を使ってひとり一人の生き方を簡単に総括しないでほしいと思うのです。

ずいぶんと前に、何かの理由でへこんでいたときに目にしたひとりの女性の姿が忘れられません。近所のスーパーで重いパンケースをせっせと運んでいた女性。額に汗をしながら、でもニコニコとびきりの笑顔でした。

だれが見ているなんて意識せず、ただひたすらに楽しそうにパンケースを次々と運んでいました。見とれました。

たいしたことでもないのにへこんでいた自分が恥ずかしくなりました。輝くというのはこういうことだと思いました。彼女は自分が「私って輝いている!」などと思っていないと思うのです。でも確実にキラキラした何かを放っていました。

強いて言うなら人間としての輝きです。女性だけに「輝け」なんて、押し付けないでほしいと思います。

※本記事は2019年4月7日時点での情報です。
EDIT&WRITING :
本庄真穂