「フランスの洗練」と「スイスの技術」を宿す、唯一無二のウォッチブランド、ブレゲ。
本格機械式時計を手がける名門のなかでも、別格の存在感が際立つそのエレガンス――
フランス・パリで育まれた華やかな歴史を、伝説の名品とともに辿ります。
創業者:アブラアン-ルイ・ブレゲ
創業地:フランス パリ
創業年:1775年
1775年、壮大な時計界のレジェンドの始まりは、パリ
名門ウォッチブランドの中でも、ブレゲを唯一たらしめている大きな理由は、創業地が、いわゆる「時計の聖地」といわれるスイスの都市ではなく、フランスのパリという出自によるところが大きいでしょう。
時はフランス革命前。ブルボン王朝が隆盛を極め、華やかな宮廷文化がこのパリで繰り広げられていました。スイスの時計産業の中心地、ヌーシャテルで生まれ育ったアブラアン-ルイ・ブレゲは、15歳という若さで単身、フランスへ。ヴェルサイユとパリで時計職人としての修行を積み、28歳で自身の工房を構えました。
1780~1790年代、画期的な発明の数々で時計界に革新をもたらす
時計師としての天性の才能と技術力だけではなく、当時の最新科学にも精通していたアブラアン-ルイ・ブレゲ。創業から5年後の1780年には、史上初の自動巻き時計『ペルペチュアル』の開発に成功しました。それを皮切りに、次々と画期的な機構を発明。「現在の時計に用いられている機構の3/4は、アブラアン-ルイ・ブレゲが発明、或いは改良した」といわれていますが、それこそが、「時計の歴史を200年早めた男」、「時計界のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と讃えられる所以なのです。
一方で、アブラアン-ルイ・ブレゲは時計の機構だけではなく、デザインやディテールにおいても大きな功績を残しました。
その代表格が、「ブレゲ針」、「ブレゲ数字」、そして「ギョウシェ文字盤」。細くシャープな針に丸い穴の装飾が施され、先端は月を思わせるデザインの「ブレゲ針」。そして独特な書体の「ブレゲ数字」は、1783年に考案。また、1786年ごろには、シルバーやゴールドに繊細で規則的なパターンを彫り込む「ギョウシェ」という装飾を発明し文字盤に用いました。
今では高級時計に当たり前にように採用されている「ギョウシェ文字盤」はもちろん、「ブレゲ」というブランド、その創業者の名前が冠された針やインデックスが一般名称として浸透し、他ブランドでも使用されている例はほかには見受けられません。
アブラアン-ルイ・ブレゲの画期的発明クロニクル
1780年 自動巻き時計『ペルペチュエル』の開発に成功
1783年 リピーター用ゴングを発明、 「ブレゲ数字」「ブレゲ針」を考案
1786年 手彫りギョウシェによる文字盤を考案
1789年 「ブレゲ・キー」を開発
1790年 耐衝撃機構パラシュートを発明
1795年 パーペチュアル・カレンダーを発明
1796年 1本針のスースクリプションを考案
王侯貴族からの寵愛を受け、開花させた天賦の才能
ブレゲというブランドから連想される「フランスの洗練」、そして高貴なイメージ――ときに無骨さとも背中合わせになりがちな「本格機械式時計」のブランドでありながら、無骨とは対極にあるブレゲのエレガンスの礎は、フランス王妃 マリー・アントワネットがブレゲに複雑時計の製作を依頼した1783年から築き上げられたといっていいでしょう。
マリー・アントワネットは使者を通じて、こんな注文をしました。
「期限も費用も制限なしに、現在の複雑機構のすべてを盛り込んだ世界最高の時計を」
しかしほどなくしてフランス革命が勃発。後に『マリ―・アントワネット』と呼ばれるようになったこの時計は、注文から44年、王妃の死から34年という長い年月を経て完成しました。
1789年にフランス革命が勃発し、アブラアン-ルイ・ブレゲはいったん故郷であるスイスへと逃れました。そこでも数々の機構の開発に取り組み、やがて再びパリへと戻ってからまた、時計師として一層の名声を築き上げるのです。
1804年、皇帝に即位したナポレオンとその一族も、ブレゲの時計を愛する顧客に。その名はヨーロッパ全土はもちろん、ロシアやトルコにも響き渡り、各国の王侯貴族をはじめそうそうたる歴史上の人物が、彼がつくる独創的な時計に心酔。顧客リストに名を連ねるセレブリティーたちは、ブレゲを、時計師というよりは偉大な芸術家として、その才能を育むパトロンのような歓びを享受していたのかもしれません。
1801年、トゥールビヨンの特許を取得
現在では高級時計の象徴として、人々の憧憬を集める複雑機構「トゥールビヨン」。時計の向きによって進み方が変わる機械式時計の精度を補正するために、時を刻む心臓部を一定の速度で回転させるこの機構を発明したのもブレゲでした。当時だれも思いもつかなかった発想力と、それを時計に昇華させる技術力を兼ね備えた、ブレゲしかなしえなかった発明として語り継がれています。
1810年、カロリーヌ・ミュラのために「腕時計」を製作
ナポレオン1世の末妹であり、ナポリ王妃となったカロリーヌ・ミュラ。あらゆる芸術を愛したカロリーヌ王妃は、ブレゲの顧客のなかでも特に熱心なパトロンでした。23歳にして初めて時計を購入してから、その生涯を閉じるまでの間、記録に残っているだけでも実に34個もの時計やクロックを注文。そのなかでも、時計史において大きな意味をなすのが、1810年に発注された「5,000フランのブレスレット式リピーターウォッチ」という記録です。
まだ時計は置時計か懐中時計が常識だったこの時代。史上初の腕時計が生まれたのは1880年ごろだったと言われてきましたが、現存するブレゲの顧客台帳をひも解くと、それより70年も前だったということが判明したのです。
1900年、5代目ルイ-シャルル・ブレゲが航空業界に進出
激動期のヨーロッパで確固たる地位と名声を築いたアブラアン-ルイ・ブレゲは、1823年、76歳でその生涯を閉じました。
その後、ブレゲ家の子孫たちは時計界のみならず、航空業界にも進出。数々の名機を世に送り出し、フランス航空界に大きな足跡を残しました。
一方、ウォッチメーカーとしてのブレゲ社も、20世紀前半に急速に発展を遂げる航空界と関わりを深め、パイロット用のクロノグラフ腕時計や、コックピット搭載の航空計器を開発。その精密さや耐久性はフランス空軍から絶賛を浴び、軍の正式発注を受け、1954年、伝説のパイロットウォッチ『タイプXX』が生まれたのです。
21世紀へと受け継がれた、初代ブレゲのパイオニア精神
20世紀後半、1970年代から1980年代にかけて、時計界は大きな転換期を迎えました。クオーツ時計の急速な普及によって、それまでの伝統的な機械式時計の存続が脅かされる、いわゆる「クオーツショック」が巻き起こったのです。ブレゲにとってもそれは大きな打撃となりましたが、名門の伝統と矜持を守り続け、そこに大きな価値を見出したスウォッチ・グループ初代会長 ニコラス G. ハイエックの手によって、1999年、同グループの傘下に。
スウォッチ・グループの潤沢な資金力と、自身がずっとブレゲに憧憬の念を抱いていたというニコラス G. ハイエックの情熱が、名門ブレゲに新たな歴史をもたらしたのです。
2017年、進化を止めないブレゲを象徴する驚異的コンプリケーションウォッチを発表
スイスのバーゼルで開催される、時計界最大のエキシビション「バーゼルワールド」で、「今年はどんな新作を発表するか!?」と世界中の時計愛好家たちの注目を集めるブレゲ。
2017年もその期待を裏切らず、極めて高度なコンプリケーションウォッチを発表しました。
ベースは自動巻きの薄型トゥールビヨン。そこに永久カレンダー、そしてイクエーション・オブ・タイム(均時差表示)まで搭載したこのモデルは、比類ない専門技術を絶え間なく実証し続けた初代ブレゲの情熱とDNAが、今も確かに受け継がれていることを印象づけました。
※イクエーション・オブ・タイム(均時差表示)とは?
時計の複雑機構のうち、それを製造できるブランドは極めて少ない、非常に高度なコンプリケーション。日常生活で使う「平均太陽時」と、実際の太陽に呼応する時間=「真太陽時」との差を表すために用いられる。
プチ・トリアノン、ルーブル美術館――フランスの文化に寄り添う芸術支援活動
人生のすべてをウォッチメイキングに捧げ、その大半の歳月をフランスで過ごしたアブラアン-ルイ・ブレゲ。
現在、ブレゲ社は、この稀代の天才時計史が愛したフランスの素晴らしい歴史的文化を守る活動を、陰に日向に支えています。
国籍も性別も超えて人々の憧憬を集め続ける名門の魅力――その源泉には、高いステータスを誇るタイムピースだけではなく、芸術と文化を深く愛するメゾンの崇高な矜持が息づいているのです。
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- TEXT :
- Precious.jp編集部
- PHOTO :
- 小野祐次
- EDIT&WRITING :
- 岡村佳代