今、服好きから熱い支持を受けるイタリアのサルトリアも、昔はほとんど日本で知られていなかった。ブームが起きたのは、1990年代。それまでのデザイナーブランド至上主義ではなく、本当にいいものを求める男たちが、日本でも増えてきたのだ。「クラシコイタリア」……時代を超越したダンディなスタイルが、今再び注目を集めている。ファッショニスタたちの思いを運んだ30年を、ここに公開する。
Part1|香港のカリスマイケメン、マーク・チョーにスーツを学ぶ
香港とニューヨークでメンズセレクトショップ「アーモリー」を共同経営し、多くのファッショニスタとの交流を深めているクラシコイタリア界の若きカリスマ、マーク・チョー氏。彼のまとう正統的スーツスタイルは、スーツを着慣れたミドルやシニア世代にとっても参考になる着こなしだ。
香港とニューヨークでクロージング中心のメンズセレクトショップ「アーモリー」を共同経営し、多くのファッショニスタとの交流を深めているマーク・チョー氏。次世代のクラシックスタイルを牽引するキーパーソンに、改めて熱い注目を集めているクラシコイタリアの、エレガンスの秘密を聞いた。
2010年、イタリア・フィレンツェで開催される世界最大級のメンズファッションの展示会ピッティ・ウォモにマーク・チョー氏は、はじめて訪れた。香港でのメンズ専門のセレクトショップ、「アーモリー」のオープンを目前に控え、店頭を飾るアイテムのサプライヤーにすすめられて会場に入ったのである。
当時、あどけなさが残る27歳だったが、クラシックなスーツに身を包んだスタイルが印象に残っている。フィレンツェ随一の名門サルトリアの「リヴェラーノ&リヴェラーノ」との話し合いを経て、新たにオープンする「アーモリー」でのトランクショーの開催を成立させた。若い世代ながらも、「最も旬なクラシック」を世界から集める審美眼は、その頃からすでに持ち得ていた。
「クラシコイタリア」復権のキーパーソン、
香港のマーク・チョー氏
日本のメンズファッションを見渡すと、「大人のスタイル」といわれるなかにも、カジュアルな着こなしに走りすぎているものがある。着丈が短く必要以上に体にフィットしたジャケット。
パンツは、くるぶしが見えるほどすそ丈が短く、しかもスーパースリムのシルエット。
足元は、オーセンティックな革靴ではなく、スニーカーを合わせたスタイルである。カジュアルなスタイルが悪いわけではない。
しかし、2000年代半ば以降、あまりにもカジュアル一辺倒なスタイルに向かいすぎたのではないか。トレンドがそういったアイテムを打ち出す状況にあったが、いわば「崩れたカジュアル」を厳しく取捨選択せず、カジュアルスタイルに拘泥していたのではないか。
その間に、チョー氏をはじめとする、東アジア地域で新しくショップを展開する若い世代のオーナーたちは、正統的なクラシックスタイルを楽しみはじめていた。自分のテイストになじませ、新鮮で本来の男のエレガンスを放ったスタイルは、新たにクラシックを呼び起こすものとなった。
そこで思い出されるのが、1990年代に日本でブレイクしたクラシコイタリア。仕立てのいい本格的なスーツに上質なドレスシャツを合わせ、シルクのタイを結んだコーディネートは、今も記憶に残る、時代を超越したダンディなスタイルである。
「日本でブームになったクラシコイタリアの着こなしには、リアルに影響を受けていません。イギリスで育ったため、クラシコイタリアには触れられませんでした。感化されたファッションは、エキセントリックな雰囲気のブリティッシュスタイルや、’50から’60年代のシンプルなアメリカンスタイルです」
チョー氏は、当時のクラシコイタリアを意識しているわけではなく、英米で学んだ装いの要素をサルトリア仕立てのスーツと融合させ、独自のスタイルを楽しんでいるのだ。
「着用しているピンストライプのスーツは、ロンドンのシティで働く金融関係者が好むデザインですが、今日は少し違う意味で着ています。スーツの薄い生地はしなやかさを表現しています。大きくやわらかい襟のボタンダウンシャツを合わせることで、フォーマルな装いのなかでさらに、しなやかさを強調しています」
チョー氏はそんな小技が生きるスーツスタイルに、ヴィンテージのロレックスや、サイドエラスティックシューズを合わせ、正統から逸脱しない遊び心をミックス。現在の、いやこれからのクラシックスタイルをつくり出している。
Part2|日本人のビジネススーツを変えたイタリアンスーツの秘密
ヤンエグ(死語)のスタイルを駆逐した「クラシコイタリア」の正体とは?
モデルでもタレントでもないのに、世界中の同性から羨望のまなざしを集める。現代のSNSブロガーも顔負けの影響力を誇った紳士たち。ジャンニ・アニエリ、ルカ・ディ・モンテゼーモロ、ステファノ・リッチ、ウンベルト・アンジェローニらの名前は、ファッション好きなら耳にしたことがあるだろう。彼らが体現したクラシコイタリアの伝説はもはや、今を生きる男が、必ず知っておきたい歴史になった。
ジャンニ・アニエリ(※1)、ルカ・ディ・モンテゼーモロ(※2)、ステファノ・リッチ(※3)、ウンベルト・アンジェロー二(※4)。ファッション好きなら耳にしたことのある蒼々たるイタリアン・ファッション・アイコンたちだ。彼らが日本のメンズファションに与えた絶大な影響は多岐にわたる。ここでは'90年代初頭から巻き起こった日本における「クラシコイタリア」の真実を、改めて解き明かしたい。
日本がバブル経済の真只中だった1980年代終わりから’90年代初頭、メンズファッションの世界ではインポートブランドブームが巻き起こり、イタリアのブランド、ジョルジオ・アルマーニ、ジャンニ・ヴェルサーチ、ジャンフランコ・フェレなどのデザイナーズ・ブランドが隆盛を極めていた。ソフトスーツは、いまや死語となって久しい、ヤングエグゼクティブの象徴として、人気を誇っていた・・・。
改めて見直す「クラシコイタリア」
’94年、高級なメンズファッションに特化した雑誌『メンズエクストラ(現・Men's Ex)』(世界文化社)が創刊される。2号目の至高のスーツ論というテーマで、日本ではじめてクラシコイタリアという言葉が登場した。ファッション業界では当時無名だった書き手、落合正勝(※5)氏が執筆した。
本来、クラシコイタリアとは、イタリア各地の優れたメーカーを集めて、’86年に設立された協会名のことを指す。協会の初代会長を務めたのは、フィレンツェでタイのブランドを率いるステファノ・リッチ氏。
メイド・イン・イタリーを打ち出し、規模の小さいメーカーも含めて、巧みなものづくりにこだわりるつくり手たち16社が加盟した。当時は、デザイナーズ・ブランドが日本の上質なメンズファッションのマーケットを占めていたこともあり、クラシコイタリアという言葉はあっても、その実体はまだまだ不明であった。
ところが、『メンズエクストラ』誌で落合氏が記すクラシコイタリアに関する描写が、メンズファッション業界にボディブローのように効きはじめていった。
たとえば、「ミシンを一切使わない、フルハンドの縫製」「ジャケットを羽織ると、まるで生き物のように体に吸い付く着用感が具わる」「上質な靴は、履くときに踵からシュポッと一気に空気が抜ける」……。
丹念な事実の書き込みと感覚的な筆致が繰り返され、スーツづくりにおける「フルハンドの縫製」や「体に吸い付くような着用感」といった表現は、クラシコイタリアを象徴する記号として定着したのだ。
そのような落合語録が、未知なるクラシコイタリアの世界をひとつひとつ詳かにしていくと、元来、こだわりのものづくりに強い関心のある日本のメンズファッションの愛好家たちは、キートンやサルトリアアットリーニ(当時の名)、あるいはルイジボレッリなどのスーツやシャツを手に入れはじめていった。’90年代半ば、いよいよクラシコイタリアが、次なるメンズファッションのトレンドになりはじめたのだ。
クラシコイタリアがメンズファッション界に浸透した背景には、落合語録のほかに、まずメイド・イン・イタリーによる手仕事を多用した、巧みなものづくりが正しく認められたことがある。
さらに、クラシコイタリア協会に加盟したいくつかのブランドが発信した「洒落たイタリア人」のイメージが、クラシコイタリアという未熟な組織を高いステイタスに導いていった。
その「洒落たイタリア人」のひとりが、ジャンニ・アニエリ氏。かつて『ル ウォモ ヴォーグ』の表紙を飾ったこともある、財界人でありながら洒脱なスタイルを披露する元フィアット名誉会長だった。
次に、ルカ・ディ・モンテゼーモロ氏。’90年にFIFAワールドカップ・イタリア大会事務局長に就任した、アメリカでの留学経験もある国際的な感覚を備える洒落者。ふたりは実にクラシコイタリアだった。堂に入ったクラシックなスーツの着こなしと優雅なライフスタイルや、重責を担う仕事をいくつもこなす男たちが、クラシコイタリア協会創設時に掲げた「手仕事によるイタリア製を世界に拡大させる」という理念と結びつかないわけがない。なぜなら、彼らは自国の巧みでクラシックなものづくりを信奉し、同時に愛用していた張本人だからである。
振り返れば、デザイナーズ・ブランドが全盛の頃、ブランドのイメージをつくったのは、トップモデルやハリウッドスターだった。デザイナーの新しい視点やクリエーションを伝えるには、彼らの肉感的なスタイルがふさわしかった。
それに対してクラシコイタリアという組織が求めたイメージリーダーは、伝統に敬意を表し、仕事にプライドを持ち、芸術・文化を愛し、知的でパワーのある人物である。クラシコイタリアの対象となる消費者は、知性にあふれ国際的な舞台で活躍する、誠実なクラシックスタイルで装う男たちだった。
前出のアニエリやモンテゼーモロが発信したイメージが、トップモデルやハリウッドスターを使わなくても、手工芸的な伝統の技術を重ねた本来のイタリアの服の魅力、本物を伝えるアイコンとして、クラシックスタイルを必要とし、そして愛している男たちにフィットしたのだ。
'97年から数年にわたって、クラシコイタリア協会は、雑誌仕立ての小冊子をつくった。協会に加盟するブランドの歴史や新作のアイテム、当時のトピックなどを編集した『CLASSICO』(※6)という宣伝媒体だ。その創刊号の表紙に登場した人物は、詩人のガブリエレ・ダヌンツィオ。
19世紀末から20世紀初頭に活躍したイタリアきっての粋人で服飾の目利きである。2号目が元フェラーリ会長のエンツォ・フェラーリ氏。天才的なエンジニアでF1の頂点に君臨した男。
以後、世界的な指揮者のリカルド・ムーティ氏、ニューヨークのマンハッタンを安全な街に変貌させた、イタリア系のルドルフ・ジュリアーニ元ニューヨーク市長らが続いた。彼らの横顔が表紙を飾ったことで、クラシコイタリアの知的で文化的な世界をもイメージづけた。
歴代会長の手腕が成功へと導いた
'95年、クラシコイタリア協会の3代目会長に就任したのが、当時ブリオーニのCEOを務めていたウンベルト・アンジェローニ氏。歴代会長のなかでも、飛躍的にクラシコイタリアを世界に広めた強者である。ローマンスタイルを謳うブリオーニは、映画『007ゴールデンアイ』でジェームズ・ボンド役に扮する俳優、ピアース・ブロスナンへの衣装提供に成功する。
前作までイギリス・サヴィル・ロウのスーツを着ていた主役の諜報部員が、イタリアのスーツに鞍替えしたことが、大事件のように伝播された。すでにイタリアを代表するメンズクラシックの雄として知られていたブリオーニだが、同ブランドのスーツが『007』に登場したことで、クラシコイタリア全体のイメージを間違いなく格上げしたのだった。
2005年には、ヘルノのCEOであるクラウディオ・マレンツィ(※7)氏が、5代目会長に就任。会長に就いてすぐに着手したのは、クラシコイタリアをオープンなスタイルで提案することだった。ピッティ会場のセンターパビリオンに設えたクラシコイタリアの会場は、以前、協会加盟ブランド以外と、一線を画するように壁で仕切られていた。その壁を取り除き、それまで近寄りがたかったクラシコイタリアへさらなる集客を狙い、軽やかなイメージをも演出したのである。
こうした流れから、クラシコイタリアが日本のメンズファッションに与えた影響は大きい。イギリスの格式張ったスタイルとは異なり、フランスの控えめなクラシックとも違う、イタリアのクラシックなスタイルには、日本人が求めていた、柔軟さや色っぽさも備わっていた。イタリアには、手仕事の文化が根付き、各地の特性に合ったものづくりで豊かなアイテムを生み、今もその人気が続いている。
クラシコイタリアの登場で、はじめて本当の意味でイタリアのクラシックスタイルに触れられたのである。クラシコイタリア30年の歴史を合わせて読んでいただき、ファッションの流れを知っていただきたい。
Part3|一気読み! 「クラシコイタリア」30年の基礎知識
この歴史を知らなければ、男性のファッションは語れない
クラシコイタリアとは何か? 日本のメンズファッションに多大なる影響を与えたこのムーブメントの真実を、日本のファッション業界を牽引してきた重鎮たちに取材した。クラシコイタリア協会の設立からすでに30年、その経緯をたどりながら、知っておくべきクラシコイタリアの歴史を紐解く。
1986年のクラシコイタリア協会設立時から今日まで、クラシコイタリアというムーブメント・ジャンルが日本のメンズファッションにどのような影響を与えたかを紐解いていきたい。
日本のメンズファッションを牽引してきた重鎮たち、信濃屋顧問・白井俊夫氏、インコントロ代表・赤峰幸生、服飾評論家・池田哲也氏、エスディーアイ代表取締役・藤枝大嗣、セブンフォールド代表取締役・加賀健二氏、ベイブルック代表取締役・原田賢治氏、リングヂャケット/クリエイティブマネージャー・奥野剛史氏の話も交えて、クラシコイタリア30年間の変遷を追う。
80年代の勃興期、それはイタリアファッションの古典回帰だった
1986年に、クラシコイタリア協会は誕生した。フィレンツェを本拠とするタイ・ブランド社長のステファノ・リッチ氏が初代会長に就任。メイド・イン・イタリーを掲げて自国のファッション産業を守り、世界に発展させることを設立の理念とし、16社が加盟した。
協会設立は、イタリア国内で継承される伝統的な服づくりの技を、世界に認知させる大きなうねりのはじまりであった。ピッティ・ウォモの会場内で最も大きなセンターパビリオンの最上階、その奥座敷にクラシコイタリア協会のブースが設置されたのだ。手作業を駆使したものづくりにこだわる、イタリアの北部から南部までの優れたブランドがメンバーとなった。
だが、当時はまだ、ファクトリーブランドとしての役割も大きかった。加盟メンバーは、世界的な大ブームを迎えつつあったイタリアンファッションを代表するデザイナーズ・ブランドや、国内外の有名ショップをはじめ、フランスなどの名門ブランドの服の生産を担っていたのである。
1866年、横浜に創業した紳士服の名店「信濃屋」顧問の白井俊夫氏は、クラシコイタリア協会設立時から別注品を発注していた。白井氏は当時を振り返る。
「スーツやジャケットの生産に少数から対応してくれました。少々、価格が高くついても『信濃屋』のネームが入ったオリジナルのタグも付けられるため、希少性もありました。その頃は、キートンにしろイザイアにしろ、メーカーとしての機能をまだ備えていました」
ミラノの名店「バルデッリ」や「ティンカーティ」、ナポリの老舗「エディ モネッティ」のスーツを生産していたのは、キートンであり、アルニスのフィッシュマウスラペルのジャケットをつくっていたのは、イザイアであった。ものづくりに優れたメーカーは、細部にまでこだわり抜いた仕事を注文先にアピールできる。
それによってメーカーが自社の技術力とデザイン性を確認でき、やがて、自社製品を強化してブランドを確立させる。’80年代、クラシコイタリア協会に加盟したブランドは、巧みなスーツの仕立てや繊細な縫製技術などを頂点にまで極めることで、それまでのファクトリーブランドからの脱却を目ざし、いよいよ自社ブランドを真剣につくりはじめたのだった。
90年代の絶頂期、クラシコイタリアは男たちの価値観に変化をもたらした
’90年代に入ってもしばらくの間、クラシコイタリアの存在は、日本ではあまり知られていなかった。その頃、加盟した各ブランドは、自社のアイデンティティを見極め、成長の起爆剤を探していた。イタリアの巧みな仕立てのスーツなどのアイテムを、いかにインターナショナルな舞台に通用するスタイルにするか。それにはメイド・イン・イタリーという高い技術の生産背景に加え、もう一皮むけることが必要であった。
当時、三越のバイヤーを務めていた服飾評論家の池田哲也氏は話す。
「その頃もまだ『ヴァレンティノ ガラヴァーニ』や『ジョルジオ アルマーニ』のほうが人気はありました。イタリアのブランドには、ゆったりとしたしなやかさやニュートラルな色合いが求められていたのです」
クラシコイタリア協会に加盟したブランドのなかで、別格な存在として君臨していたのが『ブリオーニ』。すべての工程を手作業で進める職人的な服づくりを生産ラインに乗せ、量産できるシステムを確立していた。さらに、国際的に好まれるライトウエイトの生地を投入。軽く薄い素材は仕立てが難しいものの、完璧に仕上げたスーツが人気となり、ニューヨークのマーケットは動きはじめていた。
ナポリに本社を構える『キートン』、『イザイア』、パドヴァ発祥の『ベルヴェスト』も、すでに日本市場への上陸を果たし、自社ブランドのさらなる展開を虎視眈々と狙っていたのである。
’94年、第20回主要8か国首脳会議がナポリで開催された。ホスト国のシルビオ・ベルルスコーニ首相が各国首脳にプレゼントしたのが、ナポリの老舗、『E.マリネッラ』のタイだった。クラシコイタリア協会の加盟ブランドではないが、手づくりによる上質なシルクタイの『E.マリネッラ』が世界に知られたのは、まさにクラシコイタリアのブームの予兆だった。またこの時期に、落合正勝氏が記す、クラシコイタリアという言葉が登場する。服飾評論家の池田氏は指摘する。
「雑誌『メンズ エクストラ』で落合正勝さんがクラシコイタリアを取り上げたことが、日本では大きな反響を呼びました。誠実なものづくりのクラシコイタリアの世界が、やっと理解されるようになったと思いました。国際的でグローバルに通用する、イタリアらしい職人的な服を呼び起こしたのです」
日本でクラシコイタリアのブームがもたらしたのは、いわばデザイナーズブランドブーームの終焉でもあった。デザイナーズを愛用していた洒落者たちが、クラシコイタリアのブランドに乗り換えたのである。メンズファッションのトレンドの潮目が変わり、服を選ぶ基準は、本質的なものづくりに目が向けられていったのだ。
「それまで『ジョルジオ アルマーニ』や『ジャンニ ヴェルサーチ』を着ていた人が、『キートン』や『ブリオーニ』を求めるようになりました。20歳代のお客様にも来店していただいて、『フライ』のシャツはネック36㎝など、小さなサイズまで売れていました」
と、信濃屋の白井氏は当時の盛況ぶりを話す。
このような現象は、横浜や都内のセレクトショップだけではなかった。地方のショップへの影響も多大だった。九州・熊本で1980年に創業した名店、ベイブルックの代表取締役の原田賢治氏は、こう当時を語る。
「自分自身もクラシコイタリアのスーツやジャケットを着ていて、これ以上のものはないと実感しました。『フライ』のシャツは縫製が美しく、『インコテックス』や『ロータ』のパンツはフィッティングもいいために、よく売れました。ハイエンドクラスのスーツは『キートン』や『チェザーレ アットリーニ』。ミドルクラスでは『カンタレリ』が、非常に評判がよかったですね」
地方のショップを訪れる顧客の装いも、デザイナーズから誠実なものづくりのブランドへと変わった。もはやクラシコイタリアは、全国的なブームになったのだ。
優れたつくりのスーツやシャツ、ネクタイなどのファッションアイテムが、ピッティ・ウォモの会場を訪れる世界各国のバイヤーやジャーナリストに知られていくと、クラシコイタリア協会のブースに立つ、各ブランドの社長やディレクターたちのスタイルにも注目が集まる。
それは、完成度の高いひとつひとつのアイテムは、どのようにコーディネートされているかが、気になるからだ。会場を訪れる日本のファッション関係者はだれしも、ニットブランドのマーロ代表を務めたアルフレッド・カネッサ氏が、断然にエレガントだったと認める。さらに、仕事人としての魅力を湛えたキートン社長のチロ・パオーネ氏である。
「カネッサさんは、オールバックのヘアスタイルで常に日焼けした顔。『リヴェラーノ&リヴェラーノ』で仕立てたスーツに、『ルイジ ボレッリ』のシャツを合わせて、『エルメス』のタイをエレガントに締めていました。夏は素足でスリッポンをはいていました。ボレッリの分厚い白蝶貝のボタンは、カネッサさんが着ていたシャツではじめて見ました」
と、エスディーアイ代表取締役の藤枝大嗣氏は感慨深く回想する。
一方、チロ・パオーネ氏については、服飾評論家の池田氏が語る。
「本当に美しいもの、人間的な服とはこういうものだ、ということをやり遂げたのが、チロ・パオーネ氏です。つまり、ナポリにはいい服があまりにも多いために、かえってそれが石ころにしか見えない場合があります。それを、ある場所にもっていけば、ダイヤモンドになることを見抜いていたのです。自分たちがつくってきている服の価値を、世界に問い質したのです。ブランドを立ち上げた頃から、インターナショナルな視点がありました。スーツの着こなしにおいても、内面がにじみ出たすごい存在感です」
各ブランドを代表する、文字どおり「顔」となる洒落者が何人も現れたことで、クラシコイタリアのエレガントなイメージが決定づけられていく。
「クラシコイタリア協会に属するブランドの代表者たちは、男のスタイルに必要不可欠な、気高さやプライドもしっかりと持ち得ていました」
と’81年からピッティ・ウォモを見つめてきた、インコントロ代表の赤峰幸生氏は分析する。
2000年代の成熟期、カジュアル化の激流を経て、再び本物志向へと回帰
2000年代になると、毎年ピッティ・ウォモに訪れるバイヤーなどの訪問者が右肩上がりで増えていく。来訪者数は、平均して3万人を超える。クラシコイタリアに追随するブランドにも注目が集まりはじめた。
日本のメンズマーケットが拡大するなか、日本向けにつくられたエクスクルーシブ商品が人気を博し、さらにクラシコイタリア的なスタイルは拡大していく。日本人バイヤーにとって、ブランドのポイントを引き出すことが、ブレイクにつながる腕の見せ所となる。エスディーアイの藤枝氏は、パンツブランド『インコテックス』を輸入しはじめて間もなく、こんな策を講じた。
「『インコテックス』は、仕立てのいいパンツメーカーではありましたが、特徴のないパンツでした。それが日本人の体のシェイプに合わせて、パターンをつくったことで売れはじめました」
’06年に20周年を迎えたクラシコイタリア協会。その前年から協会会長に就任したのは、アウターブランド、ヘルノCEOのクラウディオ・マレンツィ氏。クラシコイタリア協会の展示ブースをオープンな空間に変え、カジュアルな雰囲気を打ち出した。ピッティに出展するブランドも、カジュアルな服の提案で注目を集めた。人気を博したのは、ボリオリの洗いをかけたジャケットや、スリムさが際立つ『PT01』のパンツの登場。スタイルはよりカジュアルへ向かった。
「カジュアル化は当然の流れでしたので、むしろチャンスだと感じました。これまでも扱ってきたクラシックなアイテムを、より正当に評価されるような販売方法を再び考える契機となりました」
と話すのは、「タイ ユア タイ」の代表を務め、現在はセブンフォールド代表取締役の加賀健二氏である。
’08年のリーマンショックによって、それまで伸び続けていた日本でのメンズファッションの売り上げは頭打ちとなった。カジュアル化の波に拍車をかけるだけではなく、「適正価格」という名のもとに、より価格が抑えられたアイテムにも目が向けられる。
その頃、スナップショットを撮るファッションブロガーのブームがピークに達した。ピッティ・ウォモ会場を訪れる洒落者たちを撮りまくり、インスタグラムを中心とした、SNSで拡散される「旬なスタイル」は、世界規模で広がる。注目を集め出したのは、これまでとは違うクラシックなスタイル。カジュアルスタイルの波はインフルエンサーたちのなかで、ひと足先に峠を越えていた。
「洗いをかけたスポーティなジャケットが全盛の頃に、香港『アーモリー』のマーク・チョーさんは、スーツをビシッと決めていたのが新鮮でした」
と話すのは、リングヂャケットでクリエイティブマネージャーを務める、奥野剛史氏。
マーク・チョー氏をはじめ、東アジアの若きショップオーナーたちは、クラシックを基に、ヴィンテージミックスなどの着こなしを楽しみ出した。それがピッティ・ウォモで強烈な影響力を持ちはじめたのだ。
この30年を振り返ると、クラシコイタリアの全盛期があり、洗いのジャケットに代表されるカジュアルなスタイルに流れていき、そして再び、クラシックな装いが復活し、見直されはじめた。
長い年月を通して、クラシコイタリアが男のファッションに残したものとは何か。それは男の真のスタイルに訴えかける本質的なものの捉え方であったのではないか。
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- TEXT :
- 矢部克已 エグゼクティブファッションエディター
- BY :
- MEN'S Precious2016年冬号 今よみがえる!「クラシコイタリア」の伝説より
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- クレジット :
- 撮影/小池紀行(パイルドライバー/静物) 構成・文/矢部克已(UFFIZI MEDIA)