1986年のクラシコイタリア協会設立時から今日まで、クラシコイタリアというムーブメント・ジャンルが日本のメンズファッションにどのような影響を与えたかを紐解いていきたい。

日本のメンズファッションを牽引してきた重鎮たち、信濃屋顧問・白井俊夫氏、インコントロ代表・赤峰幸生、服飾評論家・池田哲也氏、エスディーアイ代表取締役・藤枝大嗣、セブンフォールド代表取締役・加賀健二氏、ベイブルック代表取締役・原田賢治氏、リングヂャケット/クリエイティブマネージャー・奥野剛史氏の話も交えて、クラシコイタリア30年間の変遷を追う。

クラシコイタリアの全盛期を彷彿させる、現代のコーディネートがここに復活。スーツ¥590,000(キートン) シャツ¥33,000(バインド ピーアール〈ルイジ ボレッリ〉) タイ¥30,000(マリネッラ ナポリ 東京ミッドタウン) チーフ¥3,800(ユナイテッドアローズ 原宿本店 メンズ館〈ユナイテッドアローズ〉) 帽子¥74,000(ボルサリーノ ジャパン)
クラシコイタリアの全盛期を彷彿させる、現代のコーディネートがここに復活。スーツ¥590,000(キートン) シャツ¥33,000(バインド ピーアール〈ルイジ ボレッリ〉) タイ¥30,000(マリネッラ ナポリ 東京ミッドタウン) チーフ¥3,800(ユナイテッドアローズ 原宿本店 メンズ館〈ユナイテッドアローズ〉) 帽子¥74,000(ボルサリーノ ジャパン)

80年代の勃興期、それはイタリアファッションの古典回帰だった

 1986年に、クラシコイタリア協会は誕生した。フィレンツェを本拠とするタイ・ブランド社長のステファノ・リッチ氏が初代会長に就任。メイド・イン・イタリーを掲げて自国のファッション産業を守り、世界に発展させることを設立の理念とし、16社が加盟した。

ニットブランドマーロのオーナーとして、クラシコイタリア協会を公私ともにサポートしたアルフレッド・カネッサ氏。後にバランタインのCEOに就任した。『クラシコ・イタリア礼讃』(世界文化社)から。
ニットブランドマーロのオーナーとして、クラシコイタリア協会を公私ともにサポートしたアルフレッド・カネッサ氏。後にバランタインのCEOに就任した。『クラシコ・イタリア礼讃』(世界文化社)から。

 協会設立は、イタリア国内で継承される伝統的な服づくりの技を、世界に認知させる大きなうねりのはじまりであった。ピッティ・ウォモの会場内で最も大きなセンターパビリオンの最上階、その奥座敷にクラシコイタリア協会のブースが設置されたのだ。手作業を駆使したものづくりにこだわる、イタリアの北部から南部までの優れたブランドがメンバーとなった。

 だが、当時はまだ、ファクトリーブランドとしての役割も大きかった。加盟メンバーは、世界的な大ブームを迎えつつあったイタリアンファッションを代表するデザイナーズ・ブランドや、国内外の有名ショップをはじめ、フランスなどの名門ブランドの服の生産を担っていたのである。

 1866年、横浜に創業した紳士服の名店「信濃屋」顧問の白井俊夫氏は、クラシコイタリア協会設立時から別注品を発注していた。白井氏は当時を振り返る。

「スーツやジャケットの生産に少数から対応してくれました。少々、価格が高くついても『信濃屋』のネームが入ったオリジナルのタグも付けられるため、希少性もありました。その頃は、キートンにしろイザイアにしろ、メーカーとしての機能をまだ備えていました」

 ミラノの名店「バルデッリ」や「ティンカーティ」、ナポリの老舗「エディ モネッティ」のスーツを生産していたのは、キートンであり、アルニスのフィッシュマウスラペルのジャケットをつくっていたのは、イザイアであった。ものづくりに優れたメーカーは、細部にまでこだわり抜いた仕事を注文先にアピールできる。

 それによってメーカーが自社の技術力とデザイン性を確認でき、やがて、自社製品を強化してブランドを確立させる。’80年代、クラシコイタリア協会に加盟したブランドは、巧みなスーツの仕立てや繊細な縫製技術などを頂点にまで極めることで、それまでのファクトリーブランドからの脱却を目ざし、いよいよ自社ブランドを真剣につくりはじめたのだった。 

90年代の絶頂期、クラシコイタリアは男たちの価値観に変化をもたらした

 ’90年代に入ってもしばらくの間、クラシコイタリアの存在は、日本ではあまり知られていなかった。その頃、加盟した各ブランドは、自社のアイデンティティを見極め、成長の起爆剤を探していた。イタリアの巧みな仕立てのスーツなどのアイテムを、いかにインターナショナルな舞台に通用するスタイルにするか。それにはメイド・イン・イタリーという高い技術の生産背景に加え、もう一皮むけることが必要であった。

信濃屋顧問の白井氏とミラノにショップとアトリエを構える名マエストロのジャンニ・カンパーニャ氏。白井氏が着用したセントアンドリュースのスーツは、今も愛用の一着。1997年、イタリアのライフスタイル誌『クラス』に掲載され た一葉。
信濃屋顧問の白井氏とミラノにショップとアトリエを構える名マエストロのジャンニ・カンパーニャ氏。白井氏が着用したセントアンドリュースのスーツは、今も愛用の一着。1997年、イタリアのライフスタイル誌『クラス』に掲載され た一葉。

 当時、三越のバイヤーを務めていた服飾評論家の池田哲也氏は話す。

「その頃もまだ『ヴァレンティノ ガラヴァーニ』や『ジョルジオ アルマーニ』のほうが人気はありました。イタリアのブランドには、ゆったりとしたしなやかさやニュートラルな色合いが求められていたのです」

 クラシコイタリア協会に加盟したブランドのなかで、別格な存在として君臨していたのが『ブリオーニ』。すべての工程を手作業で進める職人的な服づくりを生産ラインに乗せ、量産できるシステムを確立していた。さらに、国際的に好まれるライトウエイトの生地を投入。軽く薄い素材は仕立てが難しいものの、完璧に仕上げたスーツが人気となり、ニューヨークのマーケットは動きはじめていた。

 ナポリに本社を構える『キートン』、『イザイア』、パドヴァ発祥の『ベルヴェスト』も、すでに日本市場への上陸を果たし、自社ブランドのさらなる展開を虎視眈々と狙っていたのである。

 ’94年、第20回主要8か国首脳会議がナポリで開催された。ホスト国のシルビオ・ベルルスコーニ首相が各国首脳にプレゼントしたのが、ナポリの老舗、『E.マリネッラ』のタイだった。クラシコイタリア協会の加盟ブランドではないが、手づくりによる上質なシルクタイの『E.マリネッラ』が世界に知られたのは、まさにクラシコイタリアのブームの予兆だった。またこの時期に、落合正勝氏が記す、クラシコイタリアという言葉が登場する。服飾評論家の池田氏は指摘する。

「雑誌『メンズ エクストラ』で落合正勝さんがクラシコイタリアを取り上げたことが、日本では大きな反響を呼びました。誠実なものづくりのクラシコイタリアの世界が、やっと理解されるようになったと思いました。国際的でグローバルに通用する、イタリアらしい職人的な服を呼び起こしたのです」

 日本でクラシコイタリアのブームがもたらしたのは、いわばデザイナーズブランドブーームの終焉でもあった。デザイナーズを愛用していた洒落者たちが、クラシコイタリアのブランドに乗り換えたのである。メンズファッションのトレンドの潮目が変わり、服を選ぶ基準は、本質的なものづくりに目が向けられていったのだ。

「それまで『ジョルジオ アルマーニ』や『ジャンニ ヴェルサーチ』を着ていた人が、『キートン』や『ブリオーニ』を求めるようになりました。20歳代のお客様にも来店していただいて、『フライ』のシャツはネック36㎝など、小さなサイズまで売れていました」

 と、信濃屋の白井氏は当時の盛況ぶりを話す。

 このような現象は、横浜や都内のセレクトショップだけではなかった。地方のショップへの影響も多大だった。九州・熊本で1980年に創業した名店、ベイブルックの代表取締役の原田賢治氏は、こう当時を語る。

「自分自身もクラシコイタリアのスーツやジャケットを着ていて、これ以上のものはないと実感しました。『フライ』のシャツは縫製が美しく、『インコテックス』や『ロータ』のパンツはフィッティングもいいために、よく売れました。ハイエンドクラスのスーツは『キートン』や『チェザーレ アットリーニ』。ミドルクラスでは『カンタレリ』が、非常に評判がよかったですね」

 地方のショップを訪れる顧客の装いも、デザイナーズから誠実なものづくりのブランドへと変わった。もはやクラシコイタリアは、全国的なブームになったのだ。

 優れたつくりのスーツやシャツ、ネクタイなどのファッションアイテムが、ピッティ・ウォモの会場を訪れる世界各国のバイヤーやジャーナリストに知られていくと、クラシコイタリア協会のブースに立つ、各ブランドの社長やディレクターたちのスタイルにも注目が集まる。

 それは、完成度の高いひとつひとつのアイテムは、どのようにコーディネートされているかが、気になるからだ。会場を訪れる日本のファッション関係者はだれしも、ニットブランドのマーロ代表を務めたアルフレッド・カネッサ氏が、断然にエレガントだったと認める。さらに、仕事人としての魅力を湛えたキートン社長のチロ・パオーネ氏である。

「カネッサさんは、オールバックのヘアスタイルで常に日焼けした顔。『リヴェラーノ&リヴェラーノ』で仕立てたスーツに、『ルイジ ボレッリ』のシャツを合わせて、『エルメス』のタイをエレガントに締めていました。夏は素足でスリッポンをはいていました。ボレッリの分厚い白蝶貝のボタンは、カネッサさんが着ていたシャツではじめて見ました」

 と、エスディーアイ代表取締役の藤枝大嗣氏は感慨深く回想する。

 一方、チロ・パオーネ氏については、服飾評論家の池田氏が語る。

「本当に美しいもの、人間的な服とはこういうものだ、ということをやり遂げたのが、チロ・パオーネ氏です。つまり、ナポリにはいい服があまりにも多いために、かえってそれが石ころにしか見えない場合があります。それを、ある場所にもっていけば、ダイヤモンドになることを見抜いていたのです。自分たちがつくってきている服の価値を、世界に問い質したのです。ブランドを立ち上げた頃から、インターナショナルな視点がありました。スーツの着こなしにおいても、内面がにじみ出たすごい存在感です」

 各ブランドを代表する、文字どおり「顔」となる洒落者が何人も現れたことで、クラシコイタリアのエレガントなイメージが決定づけられていく。

「クラシコイタリア協会に属するブランドの代表者たちは、男のスタイルに必要不可欠な、気高さやプライドもしっかりと持ち得ていました」

 と’81年からピッティ・ウォモを見つめてきた、インコントロ代表の赤峰幸生氏は分析する。

2000年代の成熟期、カジュアル化の激流を経て、再び本物志向へと回帰

 2000年代になると、毎年ピッティ・ウォモに訪れるバイヤーなどの訪問者が右肩上がりで増えていく。来訪者数は、平均して3万人を超える。クラシコイタリアに追随するブランドにも注目が集まりはじめた。

 日本のメンズマーケットが拡大するなか、日本向けにつくられたエクスクルーシブ商品が人気を博し、さらにクラシコイタリア的なスタイルは拡大していく。日本人バイヤーにとって、ブランドのポイントを引き出すことが、ブレイクにつながる腕の見せ所となる。エスディーアイの藤枝氏は、パンツブランド『インコテックス』を輸入しはじめて間もなく、こんな策を講じた。

「『インコテックス』は、仕立てのいいパンツメーカーではありましたが、特徴のないパンツでした。それが日本人の体のシェイプに合わせて、パターンをつくったことで売れはじめました」

 ’06年に20周年を迎えたクラシコイタリア協会。その前年から協会会長に就任したのは、アウターブランド、ヘルノCEOのクラウディオ・マレンツィ氏。クラシコイタリア協会の展示ブースをオープンな空間に変え、カジュアルな雰囲気を打ち出した。ピッティに出展するブランドも、カジュアルな服の提案で注目を集めた。人気を博したのは、ボリオリの洗いをかけたジャケットや、スリムさが際立つ『PT01』のパンツの登場。スタイルはよりカジュアルへ向かった。

「カジュアル化は当然の流れでしたので、むしろチャンスだと感じました。これまでも扱ってきたクラシックなアイテムを、より正当に評価されるような販売方法を再び考える契機となりました」

 と話すのは、「タイ ユア タイ」の代表を務め、現在はセブンフォールド代表取締役の加賀健二氏である。

 ’08年のリーマンショックによって、それまで伸び続けていた日本でのメンズファッションの売り上げは頭打ちとなった。カジュアル化の波に拍車をかけるだけではなく、「適正価格」という名のもとに、より価格が抑えられたアイテムにも目が向けられる。

ブッシュ元アメリカ大統領も愛用していた、靴ブランドのアルティオリ。2000年代半ば、ゴージャスなデザインが全盛だった。矢部私物。
ブッシュ元アメリカ大統領も愛用していた、靴ブランドのアルティオリ。2000年代半ば、ゴージャスなデザインが全盛だった。矢部私物。

 その頃、スナップショットを撮るファッションブロガーのブームがピークに達した。ピッティ・ウォモ会場を訪れる洒落者たちを撮りまくり、インスタグラムを中心とした、SNSで拡散される「旬なスタイル」は、世界規模で広がる。注目を集め出したのは、これまでとは違うクラシックなスタイル。カジュアルスタイルの波はインフルエンサーたちのなかで、ひと足先に峠を越えていた。

「洗いをかけたスポーティなジャケットが全盛の頃に、香港『アーモリー』のマーク・チョーさんは、スーツをビシッと決めていたのが新鮮でした」

 と話すのは、リングヂャケットでクリエイティブマネージャーを務める、奥野剛史氏。

 マーク・チョー氏をはじめ、東アジアの若きショップオーナーたちは、クラシックを基に、ヴィンテージミックスなどの着こなしを楽しみ出した。それがピッティ・ウォモで強烈な影響力を持ちはじめたのだ。

 この30年を振り返ると、クラシコイタリアの全盛期があり、洗いのジャケットに代表されるカジュアルなスタイルに流れていき、そして再び、クラシックな装いが復活し、見直されはじめた。

いかがだろう、クラシコイタリアの歴史を知ることは、現代の男性のファッションの基礎を知ることでもある。長い年月を通して、クラシコイタリアが男のファッションに残したものとは何か。それは、男の真のスタイルに訴えかける本質的なものの捉え方であったのではないだろうか。

※価格はすべて税抜です。※価格は2016年冬号掲載時の情報です。

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この記事の執筆者
TEXT :
矢部克已 エグゼクティブファッションエディター
BY :
MEN'S Precious2016年冬号 今よみがえる!「クラシコイタリア」の伝説より
ヴィットリオ矢部のニックネームを持つ本誌エグゼクティブファッションエディター矢部克已。ファション、グルメ、アートなどすべてに精通する当代きってのイタリア快楽主義者。イタリア在住の経験を生かし、現地の工房やテーラー取材をはじめ、大学でイタリアファッションの講師を勤めるなど活躍は多岐にわたる。 “ヴィスコンティ”のペンを愛用。Twitterでは毎年開催されるピッティ・ウォモのレポートを配信。合わせてチェックされたし!
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クレジット :
撮影/小池紀行(パイルドライバー/静物) 構成・文/矢部克已(UFFIZI MEDIA)