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四番町の場所は?「最寄り駅」と「地図」
四番町は真四角のエリアで、千代田区のほかの番町エリアと同じく江戸時代から区画にあまり変化がなく街並みが整っているので、とても歩きやすいのが特徴。北側の「二七通り」を境に五番町や九段南に接し、東側の「東郷通り」を境に三番町と接し、南では「番町文化通り」を境に一番町に、そして西は「日本テレビ通り」を境に六番町に接しています。番町は一番町から六番町までありますが、順番に並んではいないのです。そして、駅から少し離れた場所にある四番町は、ほかの番町エリアに比べてより静かで、学校と風格のあるマンションが建ち並んでいます。
四番町の「最寄り駅」
四番町の最寄り駅は市ケ谷駅です。市ケ谷駅は、新宿区と千代田区の境界にあり、JR中央線・総武線や、東京メトロ南北線・有楽町線、都営地下鉄新宿線が通っています。また、東京メトロ有楽町線の麹町駅へも徒歩で行くことができます。永田町や新宿、池袋へのアクセスの良い場所です。
四番町の「地図」
四番町の「歴史」と「由来」
四番町の「歴史」
江戸時代、江戸城を中心として南東部の低地に外様大名屋敷や幕府諸施設が置かれていました。北西部には、旗本や譜代大名の居住地がありました。北西部にあたる千代田区番町には、上の切絵図のように整然と居住が並んでいたのです。これが明治維新後に新都市「東京」となることで、華族や官僚・文化人が多く住む街へと発展していきいます。四番町には、大正・昭和期に首相を務めた若槻礼次郎や政治家の島田三郎邸宅などがありました。
四番町の「由来」
江戸時代、江戸城に入った徳川家康は、城の守りを固めるためにこの一帯に「大番組(おおばんぐみ)」と呼ばれる警備役の旗本たちを住まわせました。ここから、「番町(ばんちょう)」という地名が生まれたといいます。四番町は、旧「中六番町」と呼ばれていた地域です。
四番町の「魅力」
■1:「番町の庭」がある
四番町の入り口には「番長の庭」という名前の有期限の広場があります。ここは、江戸時代、安政5(1858)年の日米修好通商条約の締結に尽力した町奉行、井上信濃守清直のお屋敷があった場所。エリア内には「No.4」という雰囲気のいいお店があって、パンや、ピザ、ビール、ワインやコーヒーなど軽食を味わいながらのんびりしたり、広場で毎月行われるイベントを楽しんだりと、地域住民や四番町を利用する人々の憩いの場となっています。
■2: かつてたくさんの文化人たちが暮らしていた
四番町内には、かつて「大臣通り」と呼ばれていた通りがありました。それは、その通り沿いに大正・昭和の激動期に総理大臣を務めた若槻礼次郎の屋敷があったからと言われています。そして、そのお屋敷はのちに「南画」の大御所である小室翠雲が居住。また、ジャーナリスト出身の政治家・島田三郎、松竹を創業した大谷竹次郎、歌人の与謝野鉄幹・晶子夫妻の屋敷も四番町にありました。
■3:子育て世代に優しい環境が整う
千代田区では保育園の待機児童ゼロ対策や小学校の放課後の過ごし場所整備などを行い、子育て世帯に優しい環境が整っています。医療費は、東京23区共通の「15歳まで無償」に加えて高校生相当の児童への医療費助成が開始されています。また、千代田区独自の制度で高校生相当までの児童のうち、所得上限額が超過しているなどの理由で国の児童手当の支給対象外の家庭にも月額5千円が支給される「次世代育成手当」、千代田区内に5年以上住む親がいる新婚世帯や子育て世帯に最大で月額8万円の助成金が出る「次世代育成住宅助成」という制度も。こういった手当てが魅力となり、 千代田区の出生率は上がっていて、東京都の出生率を上回る数値になっているようです。
市ケ谷は、ビルの建ち並ぶオフィス街のイメージが強いですが、歩いてみると外国人やファミリーの姿をよく見かけます。それは、いち早く、このエリアの住みやすさを知ったからかもしれません。江戸時代から続く格式のある高級住宅街・番町なら、優雅な暮らしができそうですよ。
- TEXT :
- Precious.jp編集部
- PHOTO :
- AC,柳堀栄子
- WRITING :
- 柳堀栄子