「以前、生田耕作さんにお会いした際に、『ダンディズム│栄光と悲惨│』をいただいて読んだのですが、ボウ・ブランメルとジョージ4世の関係は、千利休と豊臣 秀吉のようだと感じました。権力者の近くにあって、自らの美意識を貫く。それを命がけでやるのがダンディズムなのかもしれないと、当時は感じたものです」
このように語るのは、茶道宗徧流十一代目、山田宗徧氏。ダンディズムに「反骨」が付帯することは、「世界同時多発的ダンディズム論・壱」で触れたブランメルの生涯からもうかがい知れるが、先の山田氏による対比によれば、千利休、そして彼が追求した茶の湯にも、そうした反骨が含まれていると考えられる。
「茶の湯は、唐物、中国・南宋時代に生み出された美術品に端を発します。その唐物を使ったおもてなしが、茶の湯のはじまりです。そして、唐物を持つ人を本数寄者、唐物を持っていない人を侘数寄者と呼んだのです」
室町時代に公家や武士の間で広まった茶の湯
「侘数寄」は経済的に厳しいということと、富と権力の象徴である唐物を持っていないという、「本数寄」に対する対抗精神・文化であり、それゆえに反骨を内包していると、山田氏は説明する。ゆえにそれは、ダンディズムにも繫がるといえる。もともと「侘」には読みどおり「おわび」や「うらぶれたもの」
「(人生が)割り切れない思い」という意味があるという。宗徧流初代山田宗徧も「人生割り切れないから葛藤する、そこに侘びがある」という言葉を残している。その一方で、「正直で、慎み深く奢らぬさま」という「侘」の定義も、茶の湯には存在する。季節としては旧暦の10月を指す。
「その侘数寄の起源を考えるとそれは婆娑羅、さらに遡れば、風流に至るのではと、思います」
たとえば、と山田氏は『平家物語』の「忠度の都落ち」を挙げる。戦に敗れて西へと落ちていく平忠度が、歌の師である藤原俊成に自作百余首を託す逸話に、風流の姿を見るという。平安から鎌倉へ、そして室町へと時代を経る中で、風流は婆娑羅へと形を変える。『太平記』には、婆娑羅大名として知られる佐々木道誉、楠木正儀に攻め込まれ、自身の館を立ち去る際、客を迎えるように茶道具や酒肴などのもてなしを調えたとある。その風情ある態度に人々は感じ入ったとされるが、それはまた風流が婆娑羅と結びついたありさまだったともいえる。
この婆娑羅の時代に、茶の湯は始まった。それは当初は前述のとおり、唐物によるもてなし、そして遊興の茶だったが、やがて精神性を求めるようになる。その原点には「禅」があると、山田氏は語る。
「伝承ではありますが、茶が今の形式になるにあたって、村田珠光が一休禅師を師として、その教えを受けたことが大きく影響しています。大徳寺の開祖である大燈国師の継承を標榜する一休のもとには、当時、今日の伝統芸能の始祖となるような人たちが集い、交流が生まれていたようです」
この禅と、その「求心力」について、山田氏は別の例を挙げる。
「以前、山岡鉄舟についての本を読んでいたのですが、山岡とは夜中に江戸を発って歩いて三島まで行き、朝参禅してからまた歩いて帰ってくる、そんな禅の修行をしていた人なんです。その山岡家には、とにかく人が訪れて、しかもなかなか客が帰らず奥様が困っていたそうです。修行によって得られた山岡の雰囲気が訪れる人を魅了するのか、または彼が人々の邪念を取り除くのかはわかりませんが、そこに人を寄せつける何かがあったんです。そして、利休もまたそうであったのではと思いました。戦いに明け暮れてきた武将たちがつい慕ってしまう人間性があった」
千利休が強い影響力を持ったのは、禅を極めたということもあるのではないか、と山田氏は見る。ゆえに、利休によるものとされる茶室や茶道具には「鋭さ」があり、明確な美意識が感じられるとも。
室町時代にでき上がったおもてなしの形。それに沿って、茶の湯の形も決まっていた。ところが変革の戦国時代になると、旧来の形式に対して、新しい人々が登場する。美術品を好む人々が、好きに自分の空間をつくりおもてなしをするようになる。こうした過渡期の時代背景の結果、利休はさまざまな茶にまつわる形を打ち出すことができた。そこには時の武将たちのニーズもあったと、山田氏は言及する。
「たとえば太陽王ルイ14世が自らバレエを踊ったり、織田信長が桶狭間の出陣前に舞を踊ったり、リーダーは基本的に美しくないといけなかったのです。美を体現することで、つき従う者たちの気持ちを集めることができなければならなかった。そのためにも美意識を磨いておく必要があった。方法がさまざまある中で、茶の湯もそのひとつだったのです」
利休は空間における人々の平等を標榜し、茶室から刀を排した。自らの好き(数寄)で茶の世界を築きあげていったが、秀吉の逆鱗に触れ、切腹を命じられてしまう。しかし、山田氏の祖先も含め、利休の死後もその美意識を備えた茶の湯は継承され、今日まで発展してきた。
「楽しかったから、そして茶の湯が好き(=数寄)だったから、弾圧があっても続いていったのではないでしょうか」
それでは、利休が茶の湯で追求していたものはなんだったのか。「それは平和じゃないでしょうか。そして心の自由だと思います。抹茶を飲むときには両手を使います。それは(傍らに武器のない)平和でなければ味わえないもの、味わえない美しさなのです」
茶会とは本来、ふだん見たことのない空間にて、ふだん見たことのない美術品でもてなし、人と人との関係性ができ上がり、さらにどう心が変わっていくかを見るのが理想だと、山田氏は語る。権威への反骨を起点としながらも、調和し、より高次の美を目ざすのが茶の湯に息づく「侘」の価値であるならば、装いと生き方において、私たち日本人にとってのダンディズムの理想もまた、その境地にあるのかもしれない。
- TEXT :
- 菅原幸裕 編集者
- BY :
- MEN'S Precious2015年夏号〝世界同時多発的〟ダンディズム論
- クレジット :
- イラスト/早乙女道春 構成・文/菅原幸裕