「立后」は「りっこう」「りつごう」と読み、「天皇の后(きさき)を決めること」を意味します。平安時代、有力貴族たちは自分の娘の立后を目指し、激しい権力争いを繰り広げました。その理由は、当時の法律で、「后」には決められた収入や人事権があることのほか、何より、「皇后(中宮)」が産んだ第1皇子が天皇の跡継ぎ(東宮)になるという原則があったからです。NHK大河ドラマ『光る君へ』でも、藤原道長の娘・彰子の「立后」の儀式が、内裏にて盛大に催される様が描かれていましたね。今回は「立后」をテーマに、その意味や、藤原氏の実質的な家祖とされる藤原不比等らによる「光明子立后問題」についてご紹介します。
【目次】
【大河ドラマ『光る君へ』に登場した「立后」とは?「読み方」「意味」】
■「読み方」
「立后」とは「りっこう」、あるいは「りつごう」と読みます。
■「意味」
「立后」とは、「皇后(中宮)を立てること」、つまり天皇の正式な后を決定することです。別の言い方では「皇后冊立(こうごうさくりつ)」。
当時、天皇の妻は「皇后(中宮)」、「女御」、そして「更衣」の3つにわかれていて、なかでも政治的に重要なポジションだったのが、「皇后」です。「皇后」には法律(律令)で決められた収入や人事権があり、身分も臣下ではなく皇族に入るなど、「女御」や「更衣」とは格段の差がありました。何より、「皇后(中宮)」が産んだ第1皇子が、跡継ぎ(東宮)になるという原則があったため、有力貴族たちは自分の娘を入内させ「立后」するために、激しい権力争いを繰り広げました。貴族たちにとって、自分の娘が「立后」して皇子を生み、自分は未来の天皇の外戚(祖父)となることが、権力闘争に勝利する鍵を握っていたからです。
■「立后する」とは?
天皇の「皇后(中宮)」を立てる「立后する」と表現します。現代に目を転じれば、2019(平成31)年4月30日に、第125代天皇である明仁天皇陛下の退位に伴い、2019(令和元)年5月1日に皇太子徳仁親王が皇位を継承し、第126代の天皇に即位なさいました。同時に、皇后美智子さまは上皇后となられ、皇太子妃雅子さまが立后し、皇后雅子さまとなられたことは、記憶に新しいですね。
【「光明子の立后問題」とは?】
■「光明子」ってどんな人
「光明子(こうみょうし)」(701~760年)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけて、公卿・政治家として権力を握った藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘です。それまで皇族の女性しか皇后にはなれなかった時代、729(天平元)年に、聖武天皇の皇后となり、皇族以外では初めての皇后、臣下から皇后になる「人臣皇后」となりました。孝謙天皇の母であり、のちに皇太后となっています。
■「藤原不比等」ってどんな人
藤原不比等(659~720年)は有名な「大化の改新」を行った藤原鎌足の次男です。不比等は持統天皇の抜擢により、藤原京造営や大宝律令制定などで成果を挙げ、持統天皇の信頼を得ます。さらに娘の宮子(みやこ)を入内させて皇室の外戚となり、権勢を拡大していきました。そして、698年ごろには、不比等の子孫だけが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるようになっていました。このため、不比等は藤原氏の実質的な家祖であるとも言われています。
■「長屋王の変」って知ってる?
「長屋王(ながやおう)の変」とは、奈良時代の729(天平元)年2月に起こった藤原氏による政変です。
持統王朝期、権力を握った藤原不比等は、権力基盤をいっそう確固たるものにするため、716(霊亀2)年に娘の光明子を首皇子(のちの聖武天皇)に入内させます。724(神亀元)年2月4日に首皇子が即位して聖武天皇になると、光明子は皇太子妃から夫人(奈良時代における天皇の后妃の身分のひとつ。皇后、妃に次ぐ地位)になりました。聖武天皇と光明子との間には皇太子基王(もといおう)が生まれますが、翌年には夭逝してしまいます。
一方、別の夫人である県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)が安積親王(あさかしんのう)を出産し、安積親王が唯一の皇子となったことで、藤原氏は危機感を募らせます。このような状況下で、安積親王の立太子(皇太子となること)を阻むと共に、光明子の「立后」を目指す藤原氏が、729年に皇親(天皇の親族)で有力な皇位継承候補であった長屋王を排除するために起こしたとされる政変が「長屋王の変」です。
不比等の息子であり光明子の異母兄である4兄弟が「左大臣長屋王に謀反の疑いあり」との噂を流し、訊問の結果、王は自害。妻や子もあとを追いました。その後、同年8月、光明子は立后し、皇族以外で初めての皇后となりました。これが「長屋王の変」に象徴される「光明子の立后問題」の流れです。藤原氏による冤罪事件だったとの説が有力とされています。
【立后を「英語」で言うと?】
「立后」をズバリ表す英単語はありませんが、「后の座につくこと」を表す英語のフレーズは、[investiture of the Empress]です。[investiture]は 「位階(官職や権限など)の授与」を意味する言葉です。また、「即位する」であれば「即位する」「権限を与える」などを意味する動詞[enthrone]も使えます。
・ The Emperor went into raptures about investiture of the Empress, which made Fujitsubo feel guilty.
(立后を控え歓喜する帝の姿に藤壺の宮は罪悪感を覚える)
・The Queen was enthroned more than 30 years ago.
(女王は30年以上前に即位した)
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1000(長保2)年、藤原道長の娘である彰子は立后し、一条天皇の中宮となりますが、12歳という年齢でもあり、一条天皇とはセクシャルな関係には至っていませんでした。そのため、道長は亡くなった定子皇后が残した、ただひとりの皇子である敦康親王を後見し、彰子のもとで育てます。
紫式部が女房として彰子のもとに出仕したのは寛弘2(1005)年、あるいは寛弘3(1006)年と言われており、その後の彰子の皇子出産が1008(寛弘5)年であったことを踏まえると、当時の道長は彰子の懐妊を切望していた時期であったことがわかります。
道長は紫式部の書く『源氏物語』を一条天皇に読ませ、それを彰子への寵愛につなげようと必死だったのです。ドラマでは、柄本佑さん演じる道長が、吉高由里子さん演じる紫式部に、「お前は我が最後の一手なのだ。(物語を)書いてくれ、この通りだ」と深く頭を下げます。この背景には、なんとしても彰子に皇子を生ませ、その皇子を東宮とし、天皇に即位させることで、自分は天皇の外戚(祖父)となって初めて、我が権力は盤石のものとなる…こうした道長の野望があったのです。
- TEXT :
- Precious.jp編集部
- 参考資料: 『日本国語大辞典』(小学館) /『デジタル大辞泉』(小学館) /『日本大百科全書 ニッポニカ』(小学館) /『世界大百科事典』(平凡社) /『平安 もの こと ひと 事典』(朝日新聞出版) /『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』(NHK出版新書)/『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書) :