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「大宰府」と「大宰府」の使い分け方も解説します。
「大宰府」と「大宰府」の使い分け方も解説します。

【大河ドラマ『光る君へ』にも登場した「大宰権帥」とは?「読み方」「意味」】

「読み方」

「大宰権帥」は、「だざいのごんのそち」と読みます。

■わかりやすく言うと…「意味」

「大宰権帥」は、筑紫(ちくぜん)の国にあった役所、「大宰府」の「権帥(ごんのそち)」を意味します。これだけではわかりにくいですね!

「大宰府」とは、現在の福岡県太宰府に置かれた役所で、大陸に対し防衛・外交にも当たった部署でした。「権帥」の「権」には「仮の、臨時の」といった意味があり、定員外に任命したことを表す語です。例えば「権中納言」や「権大納言」は、「中納言」や「大納言」の地位に空きがないときに昇進を望まれた人が就く出世コースです。つまり、「権帥」は、大宰府の長官である「大宰帥(だざいのそち)の代理」という意味になります。

当時、「大宰帥」には親王(皇族)が任命されましたが、これは肩書きだけの職。実際に赴任するのは「大宰権帥(臨時の帥)」か「大弐(だいに。次官)」であり、彼らが実質的なトップでした。つまり「大宰権帥」は役所の副長官でありながら、実質的には大宰府の最高権力者だったということです。


【「官位」は?「権守」「大弐」との違い】

「官位」とは?

「官位」とは「官職」と「位階」のことです。「官職」は、「○○省のすけ(次官)」などと、官庁における地位を指します。一方、「位階」は、臣下であれば「一位」や「二位」などの「位」で、この位階の高さで、就ける官職がだいたい決まっていました。「大宰権帥」は「官職」のひとつであり、平安中期には「位階」は「三位」から「二位」相当だったと思われます。藤原隆家(たかいえ)は「従二位」で任じられて「正二位」に、藤原行成は「正二位」で「大宰権帥」に任じられました。

■「権守」「大弐」との違いは?

「官職」は、それぞれの役所によって4つの等級に分かれていました。上から、「かみ(長官)」「すけ(次官)」「じょう(判官)」「さかん(主典)」です。この呼び名に、各役所が異なる漢字を付けました。例えば「かみ」であれば「頭、守、正」などです。「権守」は「ごんのかみ」と読み、中央から派遣され、諸国の政務をつかさどった地方官である「国司」の長官を意味しています。「国司」は、現在でいうところの都道府県庁のようなものです。

九州に置かれた政府の出先機関である大宰府については、長官は「帥(そち)」と呼ばれ、上から「大宰帥(だざいのそち)」、「大宰大弐(だざいのだいに)」「大宰少弐(だざいのしょうに)」、「大宰大監(だざいのだいげん)」「大宰少監(だざいのしょうげん)」、「大宰大典(だざいのだいてん)」、「大宰少典(だざいのしょうてん)」となっていました。「大宰権帥(だざいのごんのそち)」はあくまで臨時のポストではありますが、「大宰帥」の代理であるため、「大宰大弐」よりも地位は上。「筑紫の帥(つくしのかみ)」とも呼ばれました。「大弐」の位階は正五位相当といわれていますから、「権帥」よりはだいぶ格下ですね。とはいえ、「大宰権帥」も名目だけの存在だった場合、「大宰大弐」が大宰府を取り仕切りました。


【ビジネス雑談に役立つ「大宰権帥」にまつわる「雑学」】

■「大宰府」と「太宰府」の違いを知ってる?

一般的には、古代の役所に関連する場合は「大宰府」中世以降の地名は「太宰府」と「太」の字を用いていますが、表記の使い分けについては断定するまでには至らず、現在でも研究されているところです。1955(昭和30)年、九州大学の鏡山猛(かがみやまたけし)教授が、地名や天満宮など以外は「太宰府」と表記したことをきっかけとして、一般には古代律令時代の役所と、その遺跡に関するダザイフは「大宰府」、中世以降の地名や天満宮については「太宰府」と表記されるようになりました。現在では、行政的な表記もこれにならい、「大宰府政庁跡」「太宰府市」というように明確に使い分けています。

■「大宰府」は流刑地だった?

大宰府といえば「学問の神様」として知られる菅原道真(845〜903年)が、901年、無実の罪で左遷され、終えんを迎えた場所として有名です。大河ドラマ『光る君へ』で描かれた、道真から約100年後の平安中期においても、大臣など高位の人が「大宰権帥」に任じられる場合、実質的な追放・流刑でした。例えば、藤原伊周(これちか:『光る君へ』では三浦翔平さん)が「長徳の変」により失脚し左遷されたのも「大宰権帥」でした。

■「大宰府に赴任したい」と望んだ行成は優秀な故に出世が遅れた

『光る君へ』でも描かれていますが、藤原行成(ゆきなり:渡辺大知さん)は子どものころから非常に優秀で、字が抜群にうまく、しかも人柄がよく誠実で正直な人物だったようです。しかしながら祖父、父の早世により、若い頃は不遇な時代を過ごします。995(長徳元)年に24歳でようやく蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢されますが、あまりに優秀でしかも実直だったため、一条天皇からは絶大な信頼を寄せられてしまったのです。

蔵人頭は激務であり2〜3年で参議に出世するのが普通なのに、行成は7年も蔵人頭を続けることになりました。最終的には権大納言になりましたが、彼の能力からすれば、大臣になっても不思議はなかったようです。ドラマの第43回で行成が大宰府行きを希望したとき(1014年頃)には権中納言でしたが、財をなしたいがために大宰権帥を望んだのは、史実です。理由は、道長の六男・長家を婿にしたため、出費が著しく増えたからともいわれています。のちに藤原隆家の後任として「大宰権帥」に就きますが、実際に九州に赴任することはありませんでした。

■「大宰権帥」は人気の赴任地でもあった?

大宰府は流刑の地として知られていましたが、同時に、朝廷による九州地方の総司令部であり、大陸貿易の窓口でもありました。平安時代中期には、中国、朝鮮半島からの商人が来航しており、その取締権限をもつ大宰府の幹部は高収入が見込め、数々の役得もありました。  そのため、上流貴族のなかにも、「大宰権帥」の職を望む者は多かったのです。ドラマでは、眼病を患った藤原隆家(竜星涼さん)が治療のため大宰府への赴任を望み、「ぜひとも私を大宰大弐にお任じください」と藤原道長(柄本佑さん)に願い出ていましたね。これも史実です。

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藤原行成は「財をなすため」に藤原道長に大宰府への赴任を希望しますが、結果的に「大宰権帥」に任じられたのは、「天下の荒くれ者」と呼ばれた藤原隆家でした。行成は道長に不満を述べますが、隆家就任中の1019(寛仁3)年には、沿海州の女真族が壱岐・対馬・北九州を襲撃した戦争「刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)」が起こるのですから、運命とは不思議なものです。隆家の活躍により、日本は異民族を撃退することができましたが、もしもこのとき、「大宰権帥」が文系男子である行成だったら…日本はどうなっていたのでしょうね。

この記事の執筆者
Precious.jp編集部は、使える実用的なラグジュアリー情報をお届けするデジタル&エディトリアル集団です。ファッション、美容、お出かけ、ライフスタイル、カルチャー、ブランドなどの厳選された情報を、ていねいな解説と上質で美しいビジュアルでお伝えします。
参考資料: 『日本国語大辞典』(小学館) /『デジタル大辞泉』(小学館) /『全文全訳古語辞典』(小学館) /「太宰府市 文化財情報」https://www.city.dazaifu.lg.jp/site/bunkazai/1137.html /NHK大河ドラマ・ガイド『光る君へ 完結編』(NHK出版) /『平安 もの こと ひと 事典』(朝日新聞出版) /『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』(NHK出版新書) :