真のラグジュアリーを体現する、洗練に満ちたアルマーニの世界
ラグジュアリーへの第一歩が「ジョルジオ・アルマーニ」であったことがどれほど私の人生に幸運であったことか。まだ、右も左もわからぬミラノブーム真只中のこと、初めてミラノのアルマーニのブティックに入ったときの驚きは、今も目に焼きついている。
店内を見渡したとき、ブティック中の服が奏でる繊細な色調と素材感のハーモニーは、それまでのカラフルなイタリアンカラーと言われたものとは別物の、穏やかなニュアンスに満ちたニュートラルカラーであった。いやニュートラルとも言えない複雑極まりない一色一色が醸し出す見たこともない奥行きのある世界という方が正しいだろう。
まだ、サン・アンドレアの大きな店舗がオープンする前の小さなブティックであった。おそらく1980年代後半だと思う。

ブティックの真ん中には人垣ができていて、そこには日本のファッション関係者と思われる40歳半ばの男性がいて、販売員と相談しながらコート、ジャケット、パンツ、シャツ、タイと、全てのアイテムをテーブルの上でコーディネートしていた。そして全てを購入した。
「こういうことができる人がいるのか?」と打ちのめされるほど羨ましく思った。その光景には経済力さえあればなんでもできるという下品さはみじんもなく、類い稀な洗練に対価が払える自信とセンスのよさ、作り手に対する尊敬の念だけがあった。
その衝撃的な光景が、アルマーニの世界に魅了される第一歩であった。その後、ファッションジャーナリストとして活動し始めて、初めて購入したのが「ジョルジオ アルマーニ」の深い紺のテーラードジャケットだ。
清水の舞台から飛び降りるような気持ちで手に取ったジャケットは、その後も呼び水のようにアルマーニの服を買い続ける原動力となった。同じジャケットを、ロンドンで偶然に出会った元モデルのティナ・ラッツが着ていたのを見て「やっぱり! 最高のものを選ぶのね」と密かに深く頷いたものだった。

アルマーニ黄金時代と共に歩んだジャーナリスト人生
それから、ジャーナリスト生活数十年の前半は「ジョルジオ アルマーニ」と共にあったと言える。90年代はボルゴヌオーヴォ通り21番地にある、おそらく自宅にも近いこぢんまりしたショールームで、ミラノコレクションの“トリ”を飾るショーが開催された。今でも住所を暗記しているほど「聖地」であった。
コレクションや展示会の多いミラノファッションウィークの最終日の最後のショー。疲れ果てた身体と心を癒す最高のショーがそこで披露されたのだ。スーパーモデルなどほとんど出ない、アルマーニ好みの少しエスニックなモデル達、ステージを往復しない独特のウォーキング、トレンドの街ミラノとは一線を画した「ザ・アルマーニ」としか表現しようがない独自のスタイル。

一つも見逃すまいと目を凝らして見ていた凝視したあの瞬間の連続。それは、蓄積した疲労を一枚ずつ脱ぎ捨てるような快感もあって、フィナーレには、取材の疲れなど吹っ飛び、魂が震えるような喜びが身を包んだ。
圧倒的な美への賞賛が、嵐のような拍手となって会場を包み、最終日のショーということもあってか、立ち去り難い人々で、会場はいつまでも賑わっていたのを覚えている。「シンプルで美しい」「モードの帝王」などというよく言われる言葉などそこでは陳腐でしかなかった。アルマーニのショーを見て、感じて、感動する以外一体何ができただろう。
そして、フィナーレに登場するアルマーニ氏の素敵なこと! 聞けばクロゼットいっぱいカシミアをはじめとして、さまざまな素材でできた濃紺のTシャツが詰まっているとのことだ。

…などなど、私のジャーナリストデビューの頃のアルマーニのエピソードは引き出しいっぱいに詰まっている。
非凡にして多才。アルマーニだから成し得たさまざまな「革新」の歴史
2001年、アルマーニは3000坪の工場跡地に1000席のショー会場、700人のバンケットルームを安藤忠雄に依頼し、「アルマーニ / テアトロ」と名付け、そこから、新たなステージが始まった。
独自の服作りで順調に進んできたように見えるアルマーニ氏だが、実は、最初からデザイナー志望だったわけではなく、正式なデザインの教育を受けた訳ではない。あの独特のシルエットや素材の選択眼は全て自力で学び取ったものである。
1934年7月11日、北イタリアのピアツェンツァで三人兄弟の次男として誕生。両親は会計士と主婦。ミラノ大学の医学部に進学するが、中退して軍に入隊。そのときにコレクション発表を見たのがきっかけで、1957年頃ミラノの高級百貨店「ラ・リナシェンテ」でウインドウディスプレイ担当として働き始め、60年代に入ると当時著名であったニノ・セルッティのもとでメンズウエアを手掛けるようになった。

そしてそれからの10年間はフリーランスとしても活躍し、それまでかっちりした肩ラインが中心であったメンズジャケットから、肩パッドを廃し、コテの技術を駆使した丸みのある柔らかいシルエットの現在のジャケットのシルエットを導き出し、それが世界を席巻し、アルマーニブームを引き起こしたのである。

世界中のアパレルブランドが、競ってアルマーニのジャケットを買い、分解し、その秘訣を知ろうとし始めたのもこの頃である。
1975年にミラノで、「ジョルジオ アルマーニS.p.A.」を設立。それ以降の活躍ぶりはここで述べるまでもないだろう。メンズ、ウイメンズともに、革新的なシルエットを提案し、ハリウッド映画にも進出。レッドカーペットにはなくてはならない存在となった。


「アルマーニ ジーンズ」「エンポリオ アルマーニ」などの多岐なブランド展開、「アルマーニ プリヴェ」というオートクチュールも発表。化粧品、サングラスなどファッションのトータルルックにも拡大、ホテルやリストランテ、カフェなど、相次ぐ事業も大きな成功を収めている。
大手資本やコングロマリットもなしえなかった事業を個人でやり遂げた。2025年9月のミラノコレクションでは50周年記念が予定されていた。実質的な“トリ”の予定であり、筆者も大きな楽しみにしていたのだが。

アルプスの水で洗われたコモ湖の希少なプリントなど、イタリア伝統の素材の美しさを引き出し、培われた職人技術に革新性を与えた独自のシルエット。非凡にして多才。あらゆる意味で、ジョルジオ・アルマーニ氏を超える存在は、もう登場することはないのではないか。
40歳過ぎてデザイナーとしてのデビューは遅い。だが、以降50年もの間マエストロであり続けた偉大さは、おそらく誰にも真似することはできないだろう。キャリアの出発点であった憧れの人が亡くなり、その喪失感の大きさを改めて感じて、涙が溢れてくる。
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- TEXT :
- 藤岡篤子さん ファッションジャーナリスト
- PHOTO :
- Getty Images