26歳で夭折した天才歌人・石川啄木の人生は…作風とギャップがありすぎる放蕩ぶり

国語の教科書で必ず出会う名歌ですね。
国語の教科書で必ず出会う名歌ですね。

はたらけど はたらけど猶(なお) わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る」。

石川啄木の第一歌集『一握の砂』に収録されたこの名歌、国語の教科書にも必ず出てきますので、みなさまご存知ですよね。労働階級の悲哀を見事に表現した、心に迫る名歌です。

「はたらけど はたらけど猶」という最短の反復で、汗水たらして働きつづける実直な人物のイメージが湧き、「わが生活 楽にならざり」という状況説明の後、「ぢつと手を見る」という動作の描写で、涙しそうになります。

この人物の手は、水仕事で荒れたあかぎれだらけの手なのかしら? 力仕事で節くれだったマメだらけの手なのかしら?…上向かぬ日々の生活の中、酷使している自分の手を思わず見つめて途方にくれ、それでも働きつづけなければならない…ごく短いひとつの詩で、そこまでのドラマを想起させる啄木の筆力は、まさに天才です。

必死に働く労働者の手を想起させます。
必死に働く労働者の手を想起させます。

ここまで実感のこもった詩となると、作者の経験に基づいているに違いない。石川啄木その人もこうした思いを味わったのだろう。26歳の若さでこの世を去った薄幸の天才歌人の短い人生は、さぞ清貧だったのだろう…そうイメージしてしまいそうです。

実は、かなり違うのです。

啄木の性格、生活、仕事ぶり、すべてが、この代表作に描かれた人物像とはかけ離れていたようなのです。

仕事も転々、家庭は放置、借金しまくった上に踏み倒し、そのお金で女遊び!

石川啄木の人生を紐解くと、その素行の悪さに仰天いたします。

故郷の岩手県・森岡で過ごしていた思春期時代から新聞に作品が掲載されるなど、文才があることは確かでした。しかし16歳の時にカンニングが判明し、学校を退学させられています。

女性にはモテたようで、18歳で周囲の反対を押し切って、お金持ちのお嬢様と婚約。しかし彼女を故郷に残し「文学で身を立てたい」と単身、上京。

しかし上京後、望んだような就職ができず、19歳で故郷に戻って婚約者と正式に結婚することに。このときも約束した列車を仙台で突然降りて、一度は結婚式をすっぽかし、数日後にシレっと婚約者の前に登場…という、現代なら破談確実の奇行をとっていますが、そのまま結婚します。ちなみに、すっぽかした時期に滞在した仙台の旅館の宿泊代金も、踏み倒しています。

結婚後しばらくは故郷・盛岡で新聞に寄稿したり、地方文芸誌を出版したりしつつ生活を立てます。文芸誌は東京の文壇でも好評を博したようですが、資金繰りの問題で長続きしませんでした。

北海道、故郷、東京など住居を転々としながら、教師や新聞記者、校正など、職もコロコロ変わっています。その間、妻と同居したり別居したり、生活費を入れたり入れなかったりで、結婚生活はかなり不安定。妻は生活費のために自分の持ち物を質入れするなど、大変な苦労をしたようです。

当時の生活について、啄木本人がローマ字で書いていた日記が残っているのですが、なぜローマ字で書いたかと言えば「妻に読めないように」だそうで。啄木の妻ならずとも、女性なら誰しも目を覆いたくなることばかり綴られています。

仕事は気分で欠勤しまくる、なのに給料の前借りが慣習化していて、「これ以上前借りできない」という状況になると、友人・知人にすぐ借金。お金を借りたエピソードには「しゅびよくいって」とか「これでもう取るところがない」などと書かれており、貸してくれた方への感謝や、返済への責任感が感じられません。

さらにそのお金の使いみちは、ほとんど花街。どんな女性とどんな風に夜を共にしたか、行為の内容が赤裸々に書き記されています。「妻は一番愛しているけれど、その気持ちと他の女性への興味はまったく別」的なことを書いており、また「家族を養う重圧を考えると、死にたい」というような記述も見受けられます。

死ぬ思いで家族に生活費を入れて自分はつつましかった、という人なら「日記にこっそり書くくらいは」と同情できなくもないですが、啄木の場合は借金までして自分だけ遊びまくり、妻は質屋通い…ひどすぎます。

素晴らしい作品とのあまりのギャップに、脱力してしまいますね…。

啄木は、友人・知人からの借金で遊びに耽っていた。その模様は妻・節子が残し金田一京助に託したローマ字日記に詳しい。現在では『啄木・ローマ字日記』(岩波文庫)で読むことができる。
啄木は、友人・知人からの借金で遊びに耽っていた。その模様は妻・節子が残し金田一京助に託したローマ字日記に詳しい。現在では『啄木・ローマ字日記』(岩波文庫)で読むことができる。

作品が、作者の現実の人生とリンクするとは限らない。大人ならば既知の事実といえど…

そんな生活をしながらも、たった24歳で日本文学史の金字塔となる作品をつくった石川啄木は、まぎれもない大天才です。しかし才能と人間性は、必ずしもリンクするとは限らないのです。

情報社会となった現代では、そういった認識も広まりましたが、啄木作品にはジュブナイルの頃に国語の教科書で触れた方がほとんどでしょう。「こんな作品を作る昔の人だから、きっと純粋で清貧な人物」とかわいらしいミスリードに陥ってしまった方、意外と多いのではないでしょうか?

北海道函館市 啄木小公園の「石川啄木座像」(本郷新 作)
北海道函館市 啄木小公園の「石川啄木座像」(本郷新 作)

啄木は「はたらけど はたらけど猶 わが生活 楽にならず」な状態ではありましたが、それは自身のフラフラとした働き方や、身の丈に合わない出費で遊び回っていたことが大きな原因。

うっかり「石川啄木のように清貧に…」などとカン違いで語ってしまわぬよう、どうぞ、お気をつけくださいませ。

この記事の執筆者
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Precious.jp編集部 
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参考文献:『啄木 ローマ字日記』桑原 武夫 編 訳(岩波文庫)
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小出 真朱
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