中国による強権政治。そこに香港の若者たちが声をあげたのです
ひと晩眠って目を覚ましたら、その街の風景は一変していました。1997年7月1日、香港の主権がイギリスから中華人民共和国へと返還された日の朝の出来事でした。
私はその前日に行われた、エリザベス女王や鄧小平(とうしょうへい)主席が臨席しての、大々的な返還式典を生中継するために香港入りをしていました。
街のいたるところで花火が上げられ、爆竹が鳴らされ、いちおうのお祭り気分ではありましたが、「これからどうなるのだろう」という不安や、困惑を口にする人々にたくさん行き会いました。
そして翌日の返還当日、街は中国の国旗であふれ返り、一夜にして町じゅうが真っ赤に染まっていました。昨日までの香港とは明らかに何かが違う。赤い街を驚きとともに眺めたことを思い出します。
香港の返還は、中国の「一国二制度」政策によって「香港は中国に返還後も高度な自治が認められる」ことと、「資本主義制度と生活方式は、50年変わらない」ことが保証されたことによって実現したものです。
この共産主義と資本主義制度を両立させるという、本来ならあり得ない政策が「一国二制度」ですが、そもそもこの政策は鄧小平が台湾を統一するための奇策だった、といわれています。それを香港に適用して「試してみた」のです。
しかし、最近の習近平(しゅうきんぺい)政権は「高度な自治」を認めるどころか、どんどん香港の中国化を進めてきたのです。
そして返還から22年が経ち、「50年間保証される」はずだった生活方式にも、じわじわと中国の影響力が及び始めました。
そこで主に返還後に生まれてきた若者を中心に、香港政府と中国本土への怒りが爆発したのです。きっかけは、中国本土への逃亡犯引き渡し条例の改正でした。
この条例は、中国共産党が「犯罪者」とみなす人物を香港政府が逮捕し、身柄を中国に送ることができるというもので、対象は殺人などの犯罪者のみならず、言論人や経済人、ジャーナリストなど。つまりだれでもその対象になり得るという、多分に弾圧的な内容でした。
若者たちは声をあげました。2019年6月9日に行われた抗議デモには、香港の人口の実に7分の1にあたる約100万人が議会の周りに集結した、と言われています。
2014年に起きた抗議デモ、いわゆる「雨傘運動」(政府の催涙弾を傘で防御したことからこの名がついた)、以来2回目の大規模デモとなり、その後も抗議行動は繰り返されました。結果、行政長官は改正案を「事実上の撤回」とすることを認めたのです。
私は、香港の若者たちがメディアのインタビューに答える姿を見て、久しぶりに感動しました。
まだあどけなさが残る女学生が友達と手を握り合いながら、「行政長官は嘘つき」と、自分たちの意見を堂々と主張する姿。それはとても頼もしく、また凛々しくも見えました。
大人の事情で「長いものには巻かれた方が得」などという発想とは無縁です。純粋な怒りに突き動かされた訴えは、パワーに満ちあふれていました。
彼女ら、彼らの思いが大きな力によって押しつぶされることがないよう、つまり、あの学生たちを装甲車が轢いていった「天安門事件」のような悲劇の弾圧が、二度と繰り返されないことを祈るばかりです。
鄧小平が試験的に香港に採用した「一国二制度」は、今はほぼ崩壊しているというのが専門家の主流な見方です。理由は、2012年から国家主席となり、権力の拡大に余念のない習近平の政治手法です。
力による統治を進める習主席は、香港の中国化を推し進めることによって自ら「一国二制度」の終焉を招いているのです。1997年7月1日に感じたあの「違和感」があらためて思い出されます。
アジアの金融センターとして活気にあふれ、現代と昔が交錯したような混沌とした街並みが人々を魅了して止まなかった香港。
今あの街と人々は自由を守るという共通の大命題に向かって行動を起こしています。中国の行方にも大きく関わってくることは間違いありません。
※本記事は2019年8月7日時点での情報です。
- TEXT :
- 安藤優子さん キャスター・ジャーナリスト
- BY :
- 『Precious9月号』小学館、2019年
- EDIT :
- 本庄真穂