誰だって「痛い女」と言われかねない社会
キャリアを積むにつれ、分別ある人ほど少しだけ不安になる。自分が社会において浮いてはいないか、傲慢になってはいないか、そして「痛い」と言われるような存在に見えていないか?
年齢を重ねれば、誰にも間違いを指摘されなくなり、どんどん怖いものなしになっていくのは普通のこと。ただ、そうなりがちであることをどこかで分かっていて、自らの言動を憂慮している人は大丈夫。知らないうちにブレーキが効いているから。
しかし、傲慢にならぬように自らをコントロールすることはできても、「痛い女」と思われないためのコントロールは効かない。人様に迷惑をかけていなくても、真面目で一生懸命でも、世間に痛いと言われる不条理はどんなコミュニティにもあるわけで、誰もが痛い女になる可能性を秘めている。
だからこそ、痛いとだけは言われたくない、それがキャリアを積んだ女性たちの小さなモヤモヤなのではなかろうか。
自己評価が高すぎる女は、きっと一生変わらないだろうからこそ、その分、痛々しい
そんな「痛い女」がヒロインの映画は少なくないが、見応えのある作品が多いのは一体どうしてなのだろう。いや、なかには痛さを誇張しすぎの『ヤング≒アダルト』のような映画もあるが、そういうものさえ何か見逃してはいけない気がするのも、痛いと思われてはいけないという防衛本能ゆえなのかもしれない。
この『ヤング≒アダルト』では、いわゆる“汚れ役”を好んでやるシャーリーズ・セロンが、誇張はあれども、ある意味どこにでもいそうな厄介な女を意外なほどリアルに演じた。美人で成績もよく、目立つ存在だった学生時代の栄光が忘れられず、地元に帰ってひと騒動起こすヒロインを。
既に結婚している元カレを本気で取り戻そうとするのは、自分にならばそれができると思い込んでいるから。客観的に自分を見られないことが、タイトル通り大人になりきれない、自己評価が高すぎるうえに、自己顕示欲の強い女を作っていることが、手に取るようによくわかる。
映画の多くは、間違った人間性が何となくでも正されていくようなベクトルを持っているが、この作品はそうした配慮をあまり感じさせない。つまり人に迷惑をかけるタイプの痛い女ほど本人に全くその自覚がなく、ずっと痛いまま歳をとっていくと言うことを暗示しているのだ。ところが一方、世の中は不思議なもので、彼女のような女のまわりには、過去の栄光を一緒に崇めてくれたり、自己評価の高すぎる女をそのまま受け入れ、同じように評価してくれるタイプの人間もちゃんといる。だから心を正すチャンスなく、生涯を生きてしまう可能性をも示唆、痛い女のあっけらかんとした不幸を描いているのだ。
従ってこれは、人生の一時期で一度でもチヤホヤされた経験のある女が危ないという警鐘を含みつつ、あーそういえば、こういう人がいたなと、世の中を見渡して反面教師にするための、意外に重要な作品なのである。
孤独が好きな女は気高く見えるのに、孤独を恐れる心の歪みは、一番痛い
一方、最も深刻な痛々しさは、やはり孤独がアンバランスな心をもたらすケース。孤独をものともしない、堅固な精神の持ち主は極めて気高く見えるのに、孤独にバランスを崩す人物はなぜこんなに痛々しく見えてしまうのだろうか。
超演技派ジュディ・デンチ扮する初老のベテラン教師が、ケイト・ブランシェットが演じる美しい新任教師に近づき、友情を育む過程で起こる衝撃的な出来事を描いた『あるスキャンダルの覚え書き』は、記憶の底にこびりつくような問題作にして超傑作。本来がもっと評価されるべき作品だが、じつはこの映画、夫も子どももいる女性教師が教え子の男子生徒と関係を持ち、のちに結婚までするという、世界的ニュースにもなった実話を下敷きにしている。佳作に甘んじているのも、種類の違う衝撃が平行して描かれ、焦点がぼけてしまったせいなのだろう。
ともかく生徒と関係を持つ女性教師に対し、友情とも愛情とも違う“執着”を抱いた初老の女の嫉妬含みの視点から、そのスキャンダルを描いたもので、愛される女と愛されない女との残酷なまでの対比と、そこに描かれる底知れない孤独の痛々しさはあまりにも切ない。
ハッキリ言って、人間こういう生き方だけはしたくないというキツイ教え、孤独がいけないというのでは全くない、繰り返すが、孤独が好きな人の生き方はむしろ尊い。そうではなくて、孤独が嫌なら別の生き方があるはずなのに、今までの生き方のひずみが、ここに至っては絶対にいけないというゾーンに彼女を引きこんでいること、しっかりと見つめて欲しいのだ。例え誰にも迷惑をかけていなくとも、大人の女が「痛い」と言われがちな最大の要因も、この孤独による心の歪みに他ならないのだから。
有能な女の、生真面目と一生懸命が痛々しく見えてしまう理由
そして、案外誰でも陥りがちなのが、『幸せのポートレート』でサラ・ジェシカ・パーカー演じるキャリアウーマンの痛さ。
ニューヨークで働く、有能だがスクエアな女が、クリスマス休暇に恋人の実家に滞在し、自由であけっぴろげな家族と馴染めず、浮いてしまうどころか嫌われてしまう、可笑しくも哀しい出来事の顛末を描いている。
まずこの実家が、緑多き郊外にあるのに、スーツとヒールで訪れてしまう感覚のズレから始まり、すべてが空回り。ある意味、有能であるが故に痛い女の言動は、この家族にはいちいち不愉快にうつってしまう。さすがに激しい疎外感を感じて、援護してもらうために自分の妹をこの家に呼び込むが、妹のほうはたちまち家族となじみ人気者になっていた。
ただここで、痛い女も状況と視点を変えれば少しも痛々しくない、むしろ可愛い女に見えることが描かれる。
そしてこの映画、やがて多くの人が号泣するような、極めて感動的な展開が待っているのだが、なぜ痛い女の物語がそういう流れに行き着くのか、そこに痛い女は誰でも陥りがちな代わりに、いい女と紙一重であることも描かれるのだ。
そもそも生真面目さや一生懸命、きめ細やかさ、時には謙虚さやマナーまでが、相手や環境を変えれば面倒くさく、痛々しい印象に見えてしまう現実を学ぶにはとても良い教材。一方で、何かしら自分を理解してもらえるポイントが見つかれば、痛さは逆に一瞬で良い印象に変わることも、それは教えてくれる。
逆に言えば、痛さは「痛い」とみる側の偏見や反発、自分が優位に立とうとする意図的な優越感から来る場合も多いことにも気付かされる。身近な誰かを「痛い女」と見る時、自分の心の中をのぞいて、何らかの歪みがないか、確かめてみるべきなのかもしれない。そもそもが「痛い男」とは言わない。「痛い女」しかいないのは、女を痛いと思うのは、基本的に女だから。 自分もそうなりがちだという不安を持つ女たちだから、なのである。
有能な女ほど、陥りがちな痛い時期。痛い女は、突然自分の中にやってくる
最後にもうひとつ、誰でも覚えのある痛さ。女の人生には、どんなにちゃんと生きていても痛々しく醜くなってしまう一時期が、不可抗力的に訪れる。例えばこの7月2日公開の新作映画『シンプルな情熱』。美しい大学教授が、ある若い男を好きになり、好きになりすぎたことで、孤独でもないのに、どんどん痛い女になっていくという物語。
今そういう状況にないのに、自分にもそういう瞬間があったとか、いつかこんな風になるのかもしれないという思いから、何かいたたまれない気持ちにさせられる。そういう意味で妙に共感性の高い作品なのだ。
痛い女は、こんな風に自分の中に突然やってくる、そういう現実を意識しながらこの作品を観てほしい。自分自身、痛いとわかっていながら、どんどん痛くなっていく自分を、どうにもならない辛さ。この映画はそれを教えてくれるのだ。
ここでは4人の「痛い女」を見てきたが、映画だからこそとことんリアルに、客観的にどんな女が痛いのか、それをまざまざと見せてくれるはず。ただ、痛い女を傍観するだけで痛みを知ることになり、それが自らを痛くしない予防になるはずだからこそ、「痛い女」を描いた映画は必ず見ておくべきなのである。
かくして、有能な女ほど痛い女になりがちなのも、自分が理想としてきた人生と、現実の人生とのギャップを、さらりと流してしまえずにもがくから。また知性と感性がどちらも人並み以上だからこそ、すべてにおいて過剰になってしまうから。ただ、有能な女はプライドも高いからこそ、客観性さえあれば、そこから這い出したり、立ち上がったりするのも早いはずなのだ。
あらゆる痛みは一時的なもの。同じように痛い女も一時的、そこに早く気づいて、早々に這い出すべきなのである。
作品紹介
■『ヤング≒アダルト』
Blu-ray&DVD 発売中
発売元:NBCユニバーサル・エンターテイメント
■『シンプルな情熱』
7月2日(金)Bunkamuraル・シネマほか全国ロードショー
2020年カンヌ国際映画祭 公式選出作品/2020年サン・セバスティアン国際映画祭 コンペティション部門出品 原作:アニー・エルノー「シンプルな情熱」(ハヤカワ文庫/訳:堀茂樹) 監督:ダニエル・アービッド 出演:レティシア・ドッシュ『若い女』、セルゲイ・ポルーニン『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』、ルー=テモー・シオン、キャロリーヌ・デュセイ、グレゴワール・コラン
原題:Passion simple/フランス・ベルギー/フランス語・英語/2020/99 分/R18+/ヴィスタ/5・1ch/日本語字幕:古田由紀子/配給・宣伝:セテラ・インターナショナル/宣伝協力:テレザ
- TEXT :
- 齋藤 薫さん 美容ジャーナリスト