「ミューズ」の語源は、古代ギリシア語で「ムーサ」と呼ばれる、芸術を司る九人の女神たち。音楽、詩、舞踊など、由来に諸説はあるものの、作品のイメージを具現化するインスピレーションの源として、ファッションやアートでよく挙げられるのが、このミューズの存在である。
2023年秋冬の「ディオール」のミューズとして掲げられたのは、第二次大戦禍を逞しく生き抜いた3人の女性たちだ。音楽や知性、献身において戦後の文化に大きな影響を与え、困難な状況のなかで、強靭な精神力で乗り越えた生き方は人々を奮い立たせ、自らを重ねたのだった。
謎多き人生を送ったフランス屈指の歌姫、エディット・ピアフ
まず1人目は、コレクションショーを圧巻の歌声で包み込んだ歌手のエディット・ピアフ。代表曲のひとつ『水に流して』がフィナーレに流れ「決して後悔はしない」と歌い上げる歌唱は、ピアフの人生を映し出すかのように抑揚に富んで、生きる喜びと情熱に満ちていた。大きなショー会場が、まるで一つの生命体のように熱を帯びたのだった。
エディット・ピアフは『愛の讃歌』『バラ色の人生』などで知られるシャンソンを代表する歌手だが、その生い立ちや人生は謎に包まれている。貧困、孤独、4度の交通事故、薬物やアルコール中毒、恋人の悲劇的な死…。そんな環境のなかで「転んでもただでは起きない」という表現はいささか軽すぎて気が引けるが、歌いたいという気持ちをバネに何度も立ち直り、華奢な体に想像もつかないほどの、精神力の強さを見せた。
さらに、イヴ・モンタンやシャルル・アズナヴールなどの後輩を育て、ジャン・コクトーをはじめとする多くのアーティストにインスピレーションを与え続ける存在でもあった。常に喪服を思わせる簡素な黒のドレスを着てステージに立っていたというのも有名だ。そして、第二次大戦中の占領下のパリでは、ドイツ軍将校相手のクラブで歌い続けることによって得られる特権を駆使して、レジスタンス運動に貢献し、多くの人を救っている。
この後に紹介する2人のミューズたちも含めて共通するのは、レジスタンス運動に積極的に関わっていたこと、勇敢で愛に溢れた強さをもっていたことだ。
全身黒のファッションアイコン、ジュリエット・グレコ
2人目のミューズはジュリエット・グレコだ。母親がレジスタンスの活動家であったため、強制収容所に入れられ、幼いグレコもある時期は拘束されていた。
彼女もピアフと同じく、戦後のシャンソン界を牽引する世界的な歌手の一人。『枯葉』や『パリの空の下』などの代表曲が有名だ。戦後、パリ左岸のサンジェルマン・デ・プレで花開いた、実存主義など多彩な文化とアートの象徴的存在として愛され、その中心人物であったジャン・ポール・サルトルに歌手になるよう勧められ、黒髪に黒尽くしのアイコニックな服装でサンジェルマン・デ・プレのミューズとして君臨した。
また、人種差別が露骨であった当時、モダンジャズの帝王マイルス・デイヴィスとの生涯をかけた恋物語はあまりにも切なく、語ることが多い。マイルスにとって初めてのパリでグレコに出会い、互いに一目惚れであったという。「魔法か催眠術にかけられて恍惚状態だった」とのちにデイヴィスは語っている。
激しい恋は、デイヴィスが受ける数多い嫌がらせによって、傷つき、二人の関係に苦痛を生んだ。サルトルに「なぜ結婚しないのか」と聞かれ「グレコにまで屈辱的な思いをさせたくない」と思いやるデイヴィスの強い愛は、彼が亡くなるまで続き、グレコとは生涯にわたって独特な愛の形を育んだ。
自由のためにパリを駆け回ったカトリーヌ・ディオール
3人目のミューズは、クリスチャン・ディオールの妹カトリーヌ・ディオールだ。香水「ミス ディオール」のイメージにもなっている。
1944年、ドイツ軍からのパリ解放の数日前、ドイツの強制収容所へ向かうすし詰め状態の貨物列車にカトリーヌは乗せられていた。恋人が設立メンバーであったレジスタンス組織の一員としてゲシュタポに逮捕された彼女は、過酷な尋問にも口を割らず、移送されることになったのだ。兄のクリスチャンなどが救出に手を尽くしたのだが間に合わず、1945年に解放されるまで過酷な収容所生活を送り、わずかな生還者の一人となってパリに戻ってきた。
逮捕前のカトリーヌが果たしていたのは、レジスタンスの秘密情報をまとめ、運ぶ任務。主に自転車で指定された場所に情報に運ぶので、「一日中自転車の上で暮らしていると言っても大袈裟ではない」と言われていた。
自転車に乗りやすいようロングスカートに長いスリットを入れて足捌きをよくし、ニット帽をかぶって短い毛皮のジャケットを羽織り、長いウールの靴下を履いていたと、当時の仲間の回想にある。その姿で自転車に乗って走り回る姿はとても可愛らしく、少女のようであったとも。
戦後、カトリーヌはその功労により、フランス政府から栄誉ある勲章を複数授かった。療養ののちレジスタンス時代の恋人と共に、レ・アル(パリの中央市場)で、フランス領の国々から届く花を卸す商売を始める。大好きな花々に囲まれた静かな余生であった。
新時代へと進む強さを感じさせた「ディオール」のコレクションショー
この3人の女性たちを体現するかのように、2023年秋冬の「ディオール」コレクションでは脈打つような有機的で巨大なインスタレーションが舞台を覆った。
製作者のジョアナ・ヴァスコンセロスに、ディオールのクリエイティブ ディレクターであるマリア・グラツィア・キウリが依頼したのは「カトリーヌとの対話」である。作品は「ワルキューレ ミス ディオール」と名付けられた。ワルキューレとは北欧神話の主神オーディンに仕える戦場における生死を司る武装した女戦士たちを指す。強靭な心をもつ清心な乙女でもある。
コレクションはピアフやグレコを思わせる、シンプルながらエレガントな黒のグループで幕を開け、次第に大柄で輪郭がぼやけた、ルビーやエメラルドなどカラフルな花柄に変わっていった。ダークな色調のコレクション中で、あたかも闇に光を与えるようなメタリックな輝きを伴い、花が咲き乱れるように現れてきた瞬間、コレクションは、まさにカトリーヌへのオマージュそのものであった。
独立心と勇気、愛と忍耐を携え、強い精神力で人生を、第二次大戦を乗り越えた女性たち。
「ディオール」のコレクションから感じたのは、慈愛に満ちた強さこそ、時代を超えて受け継がれるべき本物のスピリッツだということ。パンデミックを過ぎたものの、まだ混迷し疲弊するなかで、新たな時代へ一歩踏み出した私たちに必要なものではないだろうか。「ディオール」が打ち出したミューズたちは、優しくそれを教えてくれる。
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- TEXT :
- 藤岡篤子さん ファッションジャーナリスト