女優の吉高由里子さんが主演の紫式部(まひろ)を務め、くりひろげられる平安時代の雅な世界や、柄本佑さん演じる藤原道長との恋模様も話題となっている大河ドラマ『光る君へ』(NHK)。改めて当時の文化や言葉の魅力を感じている方も多いのではないでしょうか。ということで、ドラマも楽しめ、ビジネス雑談にも役立つ「古語」についてピックアップしていきます。今回は、「一帝二后」という言葉。第28回放送のサブタイトルにもなったこの言葉は、藤原道長、ひいては藤原一族の命運を握るキーワードです。詳しく解説します!

【目次】

彰子以前には前例がありませんでした。
一帝二后は、藤原彰子以前には、前例がありませんでした。

【彰子の「入内」にはどんな意味があったの?】

平安中期、国政を担う最高の職位である公卿として政治に関わっていた藤原道長。その娘・彰子(あきこ/しょうし)は999(長保元)年の11月1日、数え年12歳(満年齢11歳)の若さで入内します。このとき、一条帝は20歳(満年齢19歳)。彰子の入内は道長にとって、どんな意味をもっていたのでしょう。

■そもそも「入内」って?

「入内」とは、天皇の配偶者である后妃(こうひ)になると決まった姫君が、「内裏(だいり)に入ること」を意味します。「内裏」は「うち」とも読み、天皇が居住する場所です。つまり「入内」とは、天皇と結婚し、正式に宮中に入ることを言います。

■「后妃」の位はどう分けられていた?

大河ドラマ『光る君へ』の主人公である紫式部が生きていた平安中期、「后妃」の位はもともと3つに分かれていました。上から、天皇の正妻である「皇后」、大臣家以上の娘がなる「女御(にょうご)」、そして大納言以下の娘がなる「更衣(こうい)」です。「皇后」は女御のなかから選ばれますが、「皇后」と「女御」には大きな違いがあります。女御は天皇に仕える、という立場、一方、皇后は天皇の正妻で、身分は天皇と対等なのです。従って、皇后の発言力や権威は絶大。平安時代の貴族にとって、自分の娘を皇后に押し上げて皇子(みこ:天皇の息子)を生ませ、自分は未来の天皇の外戚(祖父)となることは、権力闘争の要だったのです。

■では「中宮」って?

前述の通り、天皇の配偶者には「皇后」「女御」「更衣」がいましたが、いわゆる「后(きさき)」と呼ばれるのは、「皇后」だけ。そして「后」と呼ばれる女性は、古来より「皇后(天皇の制裁)」「皇太后(天皇の生母、そして先々代の天皇の后である「太皇太后(たいこうたいごう)」だけと決まっていました。これを「三后」と呼びます。

「中宮」とは本来、皇后の住まいを指し、「皇后の別称」でした。ところが藤原道隆が摂政になると、それまで女御であった自分の娘の定子を「中宮」とし、先帝(円融院)の中宮・遵子(のぶこ)を「皇后」とし、皇后と中宮が並び立つ異例の制度改正を行いました。これにより、「中宮」は「4人目の后」となったのです。


【彰子入内当時の「皇位継承権」は?】

■皇位は「冷泉帝」と「円融帝」の皇子が交互に継承

第63代は冷泉帝、第64代は遵子と詮子(道長の姉・女院)の配偶者である円融帝、そして第65代は冷泉帝の皇子・花山帝、そして第66代は円融帝の皇子・一条帝。つまり、皇位は冷泉帝の皇子と円融帝の皇子が交互に継承している状態でした。もしこのまま一条帝に皇子が生まれなければ、冷泉帝の皇子で東宮である居貞(いやさだ)親王の皇子である敦明(あつあきら)親王が次の東宮となり、一条帝の父・円融院の血筋は途絶えてしまうことになります。もともと円融帝は、冷泉帝が病気のために譲位した際、皇子(のちの花山帝)が幼児だったため、「中継ぎ」として立った経緯があります。一条帝とその母・詮子にとって、将来の帝となる皇子が生まれること、つまり円融院の血統をつなげることは、何より大切な使命でした。道長が娘・彰子を入内させたとはいえ、当時彰子はまだ12歳。子どもを産む年齢には達していません。一条帝が定子を寵愛したのは、深い愛情ゆえであったのと同時に、皇子を生む可能性がいちばん高い后妃だったからでしょう。


【この後のキーワードとなる「一帝二后」とは?】

当時、公卿(くぎょう:位の高い上流貴族)たちの多くは、彰子が入内すれば、定子に執着する一条帝の心も整うだろうと考え、彰子の入内を歓迎していました。政(まつりごと)の安定につながるからです。道長は彰子の入内を定子の出産と同じ時期にすることで、一条帝と定子に、身勝手は許さないと釘を刺していたのと思われます。また、彰子の入内には、公卿たちが詠んだ歌を貼った屏風を持参させますが、思いがけず花山院からも歌が届けられ、完成した屏風は、公卿の多くが道長を支持する証となったのです。

■「女御宣下」って何?

華々しく入内した彰子は、入内からわずか6日後には「女御」の位を授かります。天皇が言葉や命令を下すことを宣下(せんげ)といいます。大河ドラマ『光る君へ』の「女御宣下」の場面では、一条帝は彰子に対し、「そなたのような幼き姫に、このような年寄りですまぬな。楽しく暮らしてくれれば、朕も嬉しい」と言葉をかけていましたね。あれは「朕がそなた(彰子)を愛おしむことはこの先もないだろうが、母上・詮子と左大臣・道長の顔も立てねばなるまい。せいぜい楽しく過ごしてくれると嬉しい」と言っているのです。この言葉を聞いた道長たち公卿は渋い顔。しかも間の悪いことに、彰子の女御宣下の日、中宮・定子は一条帝にとって待望の皇子を出産していたのです。

■「一帝二后」って何?

ドラマでは、娘・彰子の女御宣下と定子の出産が重なったことに対して、「わが運も傾きかけている」と嘆く道長に、陰陽師の安倍晴明は「一帝二后」を進言します。「一帝二后」とは、二后並立とも言い、1人の天皇に2人の后がいる状態のこと。実は彰子が入内した頃、太皇太后・昌子(冷泉帝の后)が崩御し、后の位がひとつ空きました。本来ならば、この皇位は空席となるはずのもの。ところが晴明は、現在の皇后・遵子(円融帝の后)を皇太后に祭り上げれば皇后の座は空く。中宮・定子を皇后に上げ、空いた中宮の座に彰子を据えればいい、と進言したのです。ひとりの天皇がふたりの后(正妻)をもつのは前代未聞の事態。それでも、「一帝二后」にすることで彰子の力は強まり、結果として道長の力は盤石のものとなると読んだ晴明は、道長に強く勧めます。「女御」と「中宮」とでは、それ程、発言力や権威に大きな差があったのです。

■道長にとって「一帝二后」のメリットは?

天皇の跡継ぎは「中宮(皇后)」が生んだ第一王子、というのが、それまでの原則でした。定子のふたり目の子供は男子(敦康親王)だったので、このままでは兄・道隆の血統が東宮(皇太子)になってしまいます。さらに、もし彰子が男子を産んだとしても、女御である彰子の子は東宮にはなれません。でも、もし彰子が「中宮」になれば、彰子が生んだ男子も「中宮」の第一王子となり、天皇に即位できる可能性が生まれるのです。道長は、娘の彰子が后となり、その后が皇子を生み、その皇子が天皇に即位して初めて、自分の地位・権力は確立されると考えていました。

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大河ドラマ『光る君へ』には、戦国時代のような大戦乱はありませんが、平安貴族たちのドロドロとした権力闘争が描かれています。主人公のまひろと道長の行く末も気になるところですが、ドラマをより深く味わうために、まずは「大人の語彙力」を磨き、彼らのバックグラウンドや文化を理解したいもの。一緒に学んでいきましょう!

この記事の執筆者
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参考資料:NHK大河ドラマ・ガイド『光る君へ 後編』(NHK出版) /『平安 もの こと ひと 事典』(朝日新聞出版) /『マンガでわかる源氏物語』(池田書店)/『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像(NHK出版新書) :